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【百年ニュース】1921(大正10)7月30日(土) 5月の東方会議(植民地会議)以来東京に滞在していた小幡酉吉駐華公使が帰路についた。前日の晩は遅くまで臨時外交調査会の伊東巳代治,後藤新平,加藤友三郎(海相),内田康哉(外相)のほか外務省局長級も交えて懇談会が開催された。

同年の5月16日と17日に原敬首相の呼び掛けで開催された第一回東方会議(当時の呼び名は「植民地会議」)に出席し、以来東京に滞在していた小幡酉吉駐華公使が北京への帰路につきました。前日には臨時外交調査会の伊東巳代治、後藤新平、加藤友三郎(海相)、内田康哉(外相)のほか外務省局長級も交えて懇談会が開催されました。

第一回東方会議は閣僚のほか、斎藤実朝鮮総督、山県伊三郎関東庁長官、そしてこの小幡酉吉駐華公使らが出席し、当時の日本の重要外交課題であった山東撤兵、シベリア撤兵、張作霖への限定的援助などが協議され決定されました。

なお大正期の日本の外交方針に影響力をもった機関として「臨時外交調査会」があります。これは1917(大正6)年に寺内正毅内閣が第一次世界大戦に対応し国論を統一し、外交政策を政争のそとに置くという大義名分のもと、天皇直属の機関として設置されたものです。枢密顧問官伊東巳代治や当時の内務大臣後藤新平の建策によるものでした。政党の党首であった原敬や犬養毅も招聘され、元老山県有朋の政治力に対抗する効果もありました。

この臨時外交調査会は、寺内内閣が倒れ、本格的な政党内閣である原敬内閣に代わると相対的に地位が低下しました。この年の東方会議に召集されるのは当然としても、非公式に外相や重要ポストの中華公使、さらには外務省の若手ともコミュニケーションを取っていたことがわかります。しかし約1年後の1922年9月18日に、加藤友三郎内閣によって廃止されました。

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小幡酉吉


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