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【百年ニュース】1921(大正10)11月9日(水) ワシントン会議を目前に控えた日本大使館で原敬首相の追悼会が開催される。出席者200名以上。幣原喜重郎米国大使に続き加藤友三郎,徳川家達両全権が弔辞。随員横田千之助によれば原首相はキリスト教の信仰心を最後まで失わなかった。

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11月11日より開催される予定のワシントン会議を目前に控え、ワシントンにある在米国日本大使館において先日暗殺された原敬首相の追悼会が開催されました。午後4時半より開催された追悼会は、時雨が降りしきるなか200名以上が出席しました。

応接間のマントルピースのうえには国旗日の丸のほか、真っ白な菊の花束と原敬首相の写真が飾られ、30秒間の黙とうに続いて、ワシントン会議の日本全権代表の三人が弔辞を述べました。まずは幣原喜重郎米国大使、続いて加藤友三郎海軍大臣の順で弔辞が読まれ、そして最後の徳川家達貴族院議長は「余が全権の任命を拝受したるのは全く原首相の忠誠に動かされし結果である」と万感胸に迫り声涙ともに下ったと言われます。

原敬内閣の法制局長官だった横田千之助もワシントン会議の随員としてワシントンに来ていました。栃木県選出の代議士である横田千之助は、1912(明治45)の初当選以来、政友会で西園寺公望、原敬両総裁の信任が厚く、1916(大正5)年に政友会幹事長に抜擢され党勢拡大に貢献しました。この頃には将来の原の後継者と見做されるまでに成長していました。

横田千之助によれば、東京からワシントンに出発する前に原敬首相から次のような言葉を貰ったと言います。「今回の(ワシントン)会議は神がハーディング大統領をして世界人類の平和のために開かしめたるものであると確信するゆえに、列国が各小我をとって会議を失敗に終わらしめれば神は人類に対しさらに鉄火の洗礼を与えるだろう」。

原敬は1873(明治6)年4月、17歳のときに横浜でほかの16人の日本人とともにフランス人のカトリック神父フェリクス・エヴラール(Felix Evrard)によって洗礼を受けています。洗礼名はダビデ・ハラでした。

エヴラールは信仰心に篤く、きわめて質素な生活を送り、自己を厳しく律する人物であった。原はエヴラールに中国古典を教えるのをもっぱらの仕事とし、エヴラールは原にキリスト教とフランス語を教えた。エヴラールと原の関係は、雇い主と学僕というより、良い師弟関係のような心の通い合うものであった。

二人の関係を見ると、原はフランス語やキリスト教などの西洋文化を学ぶために偽装的に入信したのではないことがわかる。エヴラールの人格に魅力を感じ、キリスト教自体にも関心を持ったのだろう。

1874年4月、原は新潟の分教場で布教することになったエヴラールに従って新潟へ行き、夏に一度盛岡に帰省したのを除くと、翌年4月までそこに滞在した。

伊藤之雄『真実の原敬』講談社新書,2020

しかし原の晩年の宗教観については不明な点があるとされています。しかしこの横田千之助の証言が正しいとすれば、原は死の直前にあってもキリスト教の宗教観を失わなかったと推測できそうです。

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