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【百年ニュース】1921(大正10)9月10日(土) 大日本蹴球協會(現公益財団法人日本サッカー協会)が誕生。英国から贈られた銀杯が契機となる。大蔵官僚の今村次吉の私邸で第1回理事会が開催され,今村が初代理事長に就任(~1933)。全国優勝競技会(のちの天皇杯全日本サッカー選手権大会)の概要が決定された。

大日本蹴球協會、現在の公益財団法人日本サッカー協会が誕生しました。

サッカーの起源は中世の英国で行われていたフットボール祭にあると言われます。19世紀になりますと、ルールの整備が進みまして、1848年にケンブリッジ大学において初のサッカーのルール策定がなされたとされています。その15年後、1863年にはロンドンにフットボール・アソシエーションが創立されました。イングランドのサッカーを統括する世界最古のサッカー協会で、The FA(ジ・エフエー)と呼ばれています。1871年には初のFAカップが開催され、ロンドンのワンダラーズ・フットボール・クラブが優勝しました。サッカーは国際的な人気を高めていき、1904年にはイングランドのほか、フランス、ベルギー、デンマーク、オランダ、スペイン、スウェーデン、スイスの欧州7か国のサッカー協会が、国際統一組織である「国際サッカー連盟」すなわちFIFAを立ち上げました。

日本においても開国後の横浜や神戸の外国人居留地において、駐留する外国人兵士や居留外国民の間でサッカーの試合が行われて初めて伝来しましたが、日本人のあいだで盛んになったのは第一次世界大戦の頃です。1917年には東京高等師範学校が第3回極東選手権競技大会のサッカー競技に出場し、国際試合を行いました。

そのような日本でのサッカー熱の盛り上がりをみた英国外務省の働きかけにより、1919年サッカーの総本家とも言えるロンドンのThe FA(ジ・エフエー)より、日本でのサッカー普及の願いを込めて、銀製のシルバーカップが送られました。日本国内の優勝チームに渡すトロフィーとして使って欲しいというものでした。受け取ったのは大日本体育協会会長であった嘉納治五郎でした。しかし日本でのサッカー協会の設立は進まず、2年間トロフィーも棚上げ状態となっていまいました。大日本体育協会内で嘉納治五郎による独断体制を批判する声が高まり、サッカー協会の設立に手が回らなかったからです。1921年3月に嘉納治五郎が会長を退任し、新会長に岸清一が就任すると、ようやくサッカー協会の設立が進んだという事情です。

皇太子裕仁親王の欧州訪問が成功し、翌年1922(大正11)年4月に今度は英国の皇太子エドワード(のちのエドワード8世)が訪日するという政治日程が組まれました。スポーツ好きで知られる皇太子エドワードの訪日が、英国からもらったものの宙ぶらりんになってしまっているシルバーカップ・トロフィーの処理に関して、背を押した可能性が高いです。そのような情勢のなか、大日本蹴球協會(現在の日本サッカー協会)がいよいよ設立されることとなりました。

キーパーソンとなったのは、大日本体育協会の筆頭理事であった今村次吉じきちです。今村は当時大蔵官僚でありながら、スポーツ行政に大きな貢献をした人物として知られています。東京帝国大学時代に陸上競技で活躍した人物です。この今村次吉の私邸で100年前の今日、第1回理事会が開催され、協会が立ち上がるとともに、今村が初代理事長に就任しました。今村は1933年まで12年に渡り日本蹴球協會の会長を務めることになりました。また協会事務所は大日本体育協会の第二代会長であった岸清一の法律事務所内におかれていました。

そして協会のもっとも重要な仕事となります日本国内の全国大会の開催についても概要が決定しました。英国から贈られたトロフィーを争い、全国のチームが競い合う全国優勝競技会が11月に開催されることとなりました。この競技会が現在の天皇杯全日本サッカー選手権大会ということになります。

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