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【百年ニュース】1920(大正9)6月8日(火)原敬内閣が生糸(蚕糸)救済を閣議決定。山本達夫農商務大臣より低利資金融通と補償金の救済案につき説明。綿糸や米より生糸救済を優先。閣議後山本農相は犬塚勝太郎次官,岡本英太郎商工局長と具体策協議。業界代表今井五介,浅田徳則,若尾幾造らを実行委員に。

「閣議(官邸)、近来生糸市価低落にて蚕糸業者困難につきいろいろ陳情あり、製糸業者、養蚕家等には資金供給の便利も計りおるも市価低落際限なきにおいては全てを救済すること能わざるにより、余は国家第一の物産にして外国貿易の最大重要品たる生糸に関しては如何なる方法によるも救済の必要あることを力説し、ついに高橋蔵相は二分の低利にて3,000万円を支出するの方法ありと云うにつき、農相より当業者に対しこれを基礎として彼らに救済案を立てしむることとなすに決定したり(原敬日記)」

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若尾幾造

「世界大戦中生糸が一躍四千何百円になり、それがまたたちまち千何百円になったことがある。蚕糸家は非常な困難に陥った。これは原内閣の時のことである。その頃大日本蚕糸会は清浦さんが会長で、私もその副をしておったから、早速清浦さんに会って、実に容易ならぬことですから会が動こうじゃありませんかと言うて、結局日本銀行から資金を出してもらうように政府へ頼むことになり、私が高橋大蔵大臣のところに頼みに行った。大蔵大臣はだんだん話を聞いて、金はどれほどいるかと言うから、一億もあればよかろうと思うと言うと承知して、心配しようと言うた。しかし、どうか腰越へ行って、一応総理に話しておいてもらいたいということであった。早速腰越の別荘で原さんに会って話をすると、熱心に聞いていたが、そんなことになっているか、それは大変だ放ってはおけない、何とかしなければならぬと言う。原という人は、人の話をうわの空では聞いていない、決していい加減な返事はしない人であった。承知したと言えば必ず実行する。この蚕糸資金も日本銀行から一億円出させてくれた。(自叙益田孝翁伝)」

益田孝(1848-1938)は三井物産創業者。幕末は麻布善福寺米国公使館に勤務し英語を習得。横浜鎖港談判の池田遣欧使節同道。井上馨に見出され大蔵省出仕のち先収会社頭取。茶人の鈍翁としても高名。

益田孝

清浦圭吾


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