【百年ニュース】1921(大正10)2月2日(水) 原敬首相が首相官邸で中村雄次郎宮内大臣と面談,宮中某重大事件の収拾に関わり始める。山県有朋が主導した皇太子裕仁親王と久邇宮良子女王の婚約破棄問題が紛糾。山県はこの問題で窮地に陥るが,5月原により救われ,心酔するようになる。
皇太子妃に御内定の久邇宮王女〔良子〕の色盲云々に関し,久邇宮家より出たりと思わるる運動いかにも激烈にて,ことに東宮侍講杉浦重剛が頭山満らに洩らし,浪人どもの利用するところとなり,各種の印刷物を配布さられ,而してこの問題は果たしていかに解決せらるるものなるや,国論全くその方向に迷う状況にて,行政上捨て置きがたきことと考え,中村〔雄次郎〕宮相の来訪を促し,官邸にて会見し,本問題を長く未定の間に置かるるは皇室の御為にも宜しからず,また行政上においてもいかにも憂慮に堪えざる次第なれば,いずれとも速やかに決定ありたしと懇談したり
(余は最初御内定ありし当時にも通知には接せず,また色盲の関係にて御内定変更の議あるもこれを山縣・西園寺らより内聞せしことの他いまだかつて宮中の筋より協議を受けたることなし,ゆえにこれを如何にせよとの意見を述べたることなく,またその意見を徴せられたることなし)
しかるに中村宮相はいかにも困難せし様子にて,実は清浦〔奎吾,枢密院副議長〕に枢密院に御諮詢のことを相談せしも,清浦は全会一致の望みなしとてこれを躊躇し,また自分も御諮詢とあれば御変更の勅裁を求めて御諮詢となることにて,累の陛下に及ぶを恐る,また平田に相談せしに平田〔東助,宮内省御用掛〕は急速に解決せざるを可とする口気にて決せずとて,その困難立場にあることを縷述せしにより,余は深くその内情を察したるも,国論をこのままに置くことは沸騰限りなき有様にて,しかも御変更を可とする元老らの説に賛同するの声なく,いたずらに変更を不可としてその論者を不忠不義の者と排斥するの声高く,政府はいずれに決定するものと見て可なるや甚だ迷惑の次第につき,余は中村にその内情はお察しするも,要するに誰か責任を取って決定するの他なかるべしと諷示せしに,中村はその責任はすなわち自分の取るべきものにて,元老の説その他はみな参考に相談せしに過ぎず,本日は西園寺公にも意見を聞くはずなれば,その上にて自分責任をもって決定すべしと言いたれば,余はなかり速やかにいずれとも決定することは国家はもちろん皇室の御為なりと注意したり。
原奎一郎編『原敬日記 第五巻 首相時代』福村出版,1981年,344頁 〔*は引用者註〕
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