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【百年ニュース】1921(大正10)年11月10日(木) 皇太子裕仁親王が東宮侍従長入江為守ら側近たちと新宿御苑でゴルフ。裕仁親王は渡欧中も現地でラウンドを廻り,帰国後頻繁にゴルフに出かけた。しかし日本が戦時下に入るとゴルフを捨て,戦後も二度とクラブを握ることはなかった。

皇太子裕仁親王が側近たちと新宿御苑でゴルフを楽しみました。昭和天皇実録では、前年1920(大正9)年5月9日の条に次のような記述があります。19歳になった頃からゴルフへの関心を深めたようです。

1920(大正9)年5月9日
午前10時御出門、新宿御苑に行啓され、ゴルフ競技を行われる。午後3時45分還啓される。この頃より皇太子はゴルフへの興味を強められ、御学問所の休憩時や放課後にもしばしば練習を行われる。

裕仁親王は1920年の欧州歴訪中も現地の王室のメンバーとゴルフで交流をしました。そして帰国後は特に頻繁にゴルフを楽しむようになりました。

1921(大正10)年9月29日
午後、仙石原ゴルフ場にお成りになり、西園寺・松平両式部官をお相手にゴルフ競技を行われる。御夕餐後、西園寺式部官撮影の欧州御巡遊中の写真を御覧になり、両名と御歓談になる。
1921(大正10)年10月1日
午前9時30分御出門、仙石原ゴルフ場にお成りになり、式部官西園寺八郎、東宮侍従甘露寺受長などをお相手にゴルフ競技を行われる。午後も続けられるも、途中霧と降雨のため中止され、午後3時15分発、御帰還になる。
1921(大正10)年10月11日
午後、新宿御苑に行啓され、ゴルフを行われる。
1921(大正10)年11月6日
千葉県下新浜御猟場へ御遠乗の御予定のところ、お取り止めとなる。午前は御庭御散策、ゴルフ練習などにて過ごされ、その後伺候しこうの東宮大夫だいふ浜尾新より、前首相原敬のこと及び政界事情などについてのお話をお聞きになる。
1921(大正10)年11月10日
午前10時、元米国大使館付武官陸軍少将井上一次に謁を賜い、米国事情に関する講話をお聞きになる。新任の東宮職御用掛陸軍砲兵大佐阿部信行に謁を賜う。午後0時30分御出門、新宿御苑に行啓され、東宮侍従長入江為守、東宮武官長奈良武次等をお相手にゴルフをされる。4時10分東宮御所に還啓される。近衛師団機動演習実視として、東宮武官壬生基義を演習地の千葉県へ差し遣わされる。壬生はこの日出発、12日帰京する。
1921(大正10)年12月4日
午後、新宿御苑に行啓され、式部官松平慶民、侍従黒田長敬、元東宮職出仕大迫寅彦、同松平直国をお相手にゴルフ競技を行われる。午後4時10分、東宮御所に還啓される。
1921(大正10)年12月9日
午前9時御出門、東京ゴルフ倶楽部駒沢ゴルフ場に行啓される。玄関にて先着の東宮職御用掛西園寺八郎、式部官松平慶民、侍従黒田長敬および同倶楽部会員十数名の奉迎を受けられる。午前は皇太子・川崎肇組、黒田・田中善三郎組にて競技を行い、9ホール全部を終えて同勝負につき、なお4ホール回ったところにて終了。正午よりクラブハウスにおいて御昼餐を召され、牧野伸顕、樺山愛輔、高木喜寛、徳川慶久、大谷光明、川崎肇、田中善三郎ら同倶楽部会員と卓を共にされる。午後は森村市左衛門をお相手に競技を行われ、9ホールを終えて互角につき、第1、第9ホールにて勝負をされる。終わって陪覧の英国特命全権大使チャールズ・エリオットおよび書記官C.J.デーヴィットソンに謁を賜い、午後3時30分御出門、御帰還になる。

良子女王と結婚後は二人でゴルフに興じることも頻繁にありました。当時の日本の上流階級に流行しはじめたゴルフやテニスを生活に取り入れ、二人はスポーツにかなりの時間を割いていたようです。

1937(昭和12)年の盧溝橋事件により日中全面戦争がはじまると、昭和天皇は周囲に配慮してゴルフを止め、その後はテニスなどもせず、さらには皇居内の生物学研究所に赴くことも減りました。戦後にはテニスと生物学の研究は再開しましたが、ゴルフは止め以後二度とクラブを握ることはありませんでした。

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