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【百年ニュース】1921(大正10)9月17日(土) 出羽庄内藩酒井家第14代当主,酒井忠宝が死去,享年66。忠宝は維新で兄忠篤より家督を継ぐが,のち家督を兄に返還した。二女の銑子は安田善次郎長男,善之助夫人。この11日後の9月28日に安田善次郎は朝日平吾に刺殺され,善之助が安田家を継ぎ二代目善次郎となる。

出羽国の庄内藩、酒井家第14代当主であった酒井忠宝ただみちが死去しました。享年は66歳でした。幕末の有名な酒井忠篤ただずみ、酒井忠宝ただみち兄弟の弟のほうです。

庄内藩は現在の鶴岡市を本拠地として江戸時代を通じて譜代大名の酒井氏が一貫して統治した藩になります。譜代大名は通常、在地領主的側面を切り離さすために、頻繁に転封てんぽうすなわち国替えがあるのですが、庄内藩の酒井家は譜代大名でありながら一度も転封がなかった稀有の例ということになります。もっとも1840(天保11)年には武蔵川越藩松平家、越後長岡藩牧野家、そしてこの出羽庄内藩酒井家の三方領地替え計画があったのは有名な話です。結局庄内藩の領民による直訴により三方領地替えは撤回となり、幕府の指導力の低下が表面化するという事件もありました。

幕末の戊辰戦争においては、庄内藩は会津藩とともに奥羽越列藩同盟の中心的な勢力となりました。そのため当時の藩主であった酒井忠篤ただずみは蟄居を命じられ、弟の酒井忠宝ただみちが藩主となりました。この兄弟は非常に仲が良かったようで、1872(明治5)年に兄、続いて1873(明治6)年に弟が相次いでドイツに留学しました。兄弟そろってドイツで過ごしたわけです。帰国後の1880(明治13)年に酒井忠宝ただみちは兄の忠篤ただずみに再び家督を譲り隠居することとなりました。

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さてこの弟のほう忠宝ただみちの二女の銑子さねこは、安田財閥の創始者たる安田善次郎の長男、安田善之助(のちの第二代善次郎)に嫁いだことで有名です。100年前の今日、父である酒井忠宝ただみちが死去したわけですが、そのときは知る由もなかった更なる悲劇が、この11日後の9月28日に待っていました。すなわち義理の父となる安田善次郎が、神奈川県中郡大磯町にある別邸・寿楽庵において、右翼のテロリスト朝日平吾によって刺殺されました。すなわち安田善之助(二代安田善次郎)と妻銑子から見ると,12日間のあいだに実父と義父の両方を失うこととなったわけです。

安田善次郎は奸富、すなわち「よこしまな」「富豪」とされて暗殺されたわけですが、実のところ東京大学の安田講堂や日比谷公会堂、さらには千代田区立麹町中学校の敷地などを匿名で寄贈・寄付していたことが死後に明らかになりました。生前はそれらの寄付行為が知られておらず、不幸な誤解を受けた人物でありました。

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