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【百年ニュース】1921(大正10)9月8日(木) 高校野球の中京商(現中京大中京高)名監督,瀧正男が愛知県一宮市で誕生。自身も中京商で5回甲子園に出場,37年夏と38年春の2回優勝。戦中はマレーシアに出征。肺結核で肋骨6本を失う。戦後は監督として中京商を2度優勝に導く。2012没,享年90。2018野球殿堂入り。

高校野球の中京商業(現在の中京大学付属中京高等学校)の名監督,瀧正男が愛知県一宮市で誕生しました。のちに自身が監督となります中京商野球部で選手としても5回甲子園に出場しました。1937(昭和12)年夏と1938(昭和13)年春の2回として捕手キャッチャーとして優勝も経験しました。バッテリーを組みました中京商業のピッチャーは、鉄腕と言われた野口二郎でした。特に1937年の夏の大会では決勝において川上哲治を擁する熊本工業に投げ勝ち当時大変話題になりました。

中京商業卒業後は名古屋高等商業学校(現在の名古屋大学経済学部)に入りましたが、第二次世界大戦で召集を受け、マレーシアに出征しました。終戦を迎えて現地で捕虜生活を送り1947(昭和22)年に復員しました。のち肺結核で肋骨6本を失うという苦難も経験しました。1949(昭和24)年に高校野球指導者となり、1953(昭和28)年には母校野球部の部長、翌年からは監督となりました。そして同年1954(昭和29)年の夏の甲子園で優勝、1956(昭和31)春の甲子園でも優勝を飾りました。

瀧正男の野球指導は,バッテリーを中心とした守りの野球で,相手に出来るだけ得点を与えず,低スコアの競い合いを制する,というスタイルでした。安打が少なくても足を使って得点する機動力野球をモットーにしました。指導者として、「ミスターオリオンズ」山内 一弘やまうち かずひろなど多くの選手を育てました。

2012(平成24)心不全のため死去。享年は90歳でした。2018(平成30)年には野球殿堂入りを果たしました。

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ところで中京商業(現在の中京大学付属中京高等学校)は戦前からの日本屈指の野球強豪校です。春夏通算優勝回数は11回で全国最多です。春夏通算136勝も日本一。また史上唯一の夏3連覇も達成しています。もっとも最近で優勝したのは2009(平成21)年の第91回夏の甲子園になります。ワタクシの出身地は新潟になりますが、その新潟代表の日本文理高校が決勝で中京大中京と対戦しまして、大変記憶に残る試合を展開致しました。ワタクシはもちろん故郷新潟の日本文理を応援しておりました。

最終回9回表、日本文理は10対4の6点差でリードされておりまして、アウトを2つ取られましてランナー無し。最後の1人のバッターとなったわけです。普通であれば、6点差で最終回2アウト、ランナー無しですので、あっさりと試合終了となりそうなところですが、ここから打者7人の連続攻撃で10対9と1点差まで詰め寄りました。野球は2アウトから、言いますが、本当にそうなんだなと。しかしあと一歩およばず、日本文理は敗れまして、中京大中京が優勝ということなりました。たいへん記憶に残る試合でありました。


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