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何処へでも行ける切手

『怯えた男は許しを乞うように
 うつろに笑って両手を差し出し
 紅茶の染みた切手をくれた
 これさえあれば郵便配達の鞄に潜み
 何処へでも行ける』
 筋肉少女帯/何処へでも行ける切手

気が付けばシン・ゴジラを越えて『人生で一番、劇場で観た回数が多い映画』になってしまった戸田真琴監督の短編映画集「永遠が通り過ぎていく」について何度目かのテキストだが、ちゃんと感想を書いておこうと思った。

いつかは書いて残そうとは思っていたが、今までは映画の宣伝も兼ねてネタバレしないよう敢えて当たり障りないものにするように意識してたし、この映画を語ろうとすれば嫌が応にも自分の傷に触れざるを得ないから正直なところ怯えていた。

それでも書こうと思った切っ掛けは、今回の上映にあたって監督が公開したnoteのインタビュー記事だった。

ある程度、公然の秘密として知っていた事とはいえ、表現者として大森靖子の「M」のモデルの子としてでなく、自身の映像作品として残したいと赤裸々に語る文章を読んで、戸田真琴と大森靖子の双方のオタクとして『腹を括らねば』という気にさせられた。大森靖子は色んな人の人生を歌にして救う。それは紛れもなく彼女の愛し方である事に間違いはないし、大森靖子というフィルターを通して歌になった人生に共感する事で救われる人達も沢山見てきたし、「M」も同様に彼女の愛故に大切に歌ってきたのを少なからず観てきた。

以前も書いたとおり、戸田真琴から大森靖子宛の手紙が歌詞の大部分を占めている大森靖子の楽曲の中でもかなり異色な曲ではある。それ故に表現者としての戸田真琴が楽曲に自身の映像作品を付加する事で補完したい気持ちも理解できるし、クラファンにも賛同して2019年の映画の完成から何度も観ているが、表現者でもなく「言葉の魔術師」と呼ばれる超歌手みたいに音楽で表現できる訳でも、文筆家としてもマルチに活躍する監督みたいに映像を撮れる訳でもなく一応、日本人として生まれて唯一、拙くても辛うじて使えるツールが日本語なだけの只のオタクがこの作品について(そして自分の人生について)語る事は彼女の作品を貶めてしまう気がして避けていたが…今回初めて書けるだけ書いてみようと思った。
(相変わらず前置きが長い…)

『アリアとマリア』
三つの短編の中で一番、台詞で傷を抉られる事が多い会話劇だと思う。それはきっと劇中くるくると変わるマリアの役割のどれかで誰しも近しい経験を想起させられるからだと思う。

自分は宗教2世の家庭ではなかったが、家を出て上京してから母親が霊能者にハマったクチだ。当時、自分がフリーター兼バンドマンのような生活をしてた事もあり何かしら親が心の拠り所をスピリチュアルに求めたとしても責める筋合いではないので御布施や高額な壺を買ったり金銭的な被害がないのであれば個人の趣味嗜好として好きにすれば良いと思っていたが、やはり肉親であろうと他者から信教を押し付けられるおぞましさみたいな気持ちを思い出してしまう。疎遠にしてても、いまだにメールで「お祓いに行け」みたいな事を言われるだけで嫌悪感を抱いてしまう自分がいる(メジャーな神道だろうと、そんな事に時間と労力を割くより亡くしたペットの供養に行った方が余程、心の安寧が得られるのだが…)他人の宗教の自由を否定しないが、自分は形而上の神にすがるよりミュージシャンや芸術に携わる人の言葉を信じて心の支えにする方が性に合っていたのだとも思う。

劇中でアリアは言う「誰だって何処へでも行けるはずよ」と。

至極その通りだが、人は各々の所属するコミュニティから逸脱するのを極端に恐れるし、何かにすがって縛られて生きていた方が楽なのだろう、本当に何処へでも行ける人は魂が孤独ではなく何者にも縛られない魂が自由な人なのだとも思う。

自分も子供の頃、親の強制する習い事が多くあまり友達と遊んだ記憶も少ないのだが…結果、自分で好きなものを掘り下げて知識を得る事に喜びを見出だすタイプのオタクになりやすい環境だったと言えば多少、救いがあるけれどもコミュ障で性格が歪む原因になったとも言える。それ故にオーケン小説を読み筋少を聴いたりサブカルに傾倒していった事実は否めない…そして巡り巡って大森靖子という人に辿り着いた。

最後にマリアが話すクラスメイトの男子と思われる台詞の中で『肌が緑色に黴びたフランケンシュタイン』というフレーズが出てくるが、自分がアリアでこの台詞を男子から言われたとしたら泣いて裸足で逃げ出すと思う。何故ならフランケンシュタインは「怪物」そのものの名前でなく「怪物」を産み出した博士の名前なのだから…(性格の歪んだオタクはこういう所にうるさい)

逆に男子として好意を寄せる女子に「自分を気に入ってくれている」と勘違いしてしまう経験も無きにしもあらずなので本当にキツい…地元時代にある歳上の子がイジメられて高校を中退した、彼女はバイトしながら大検を受け一足先に東京の大学に行き数年後、自分が上京した時に連絡をくれて何度か会ったが次第に「公●党に投票して」や某宗教の勧誘が酷くて地元時代の彼女の事が好きだった気持ちが一気に冷めて疎遠になった事を思い出した…「寒いよ」

『Blue Through』
恐らく「永遠が通り過ぎていく」という映画の骨子となるロードムービーだが、予算の関係上カットせざるを得ない部分が多かったとの事…なのだが、逆に何度も観るうちに飯田エリカさんの写真パートを含め、これはこれであるべき形に納まってると思わせる作品。

「永遠が欲しい、そうでなければ死にたい」という少女と「それには応えられない」と返す男。

自分は男女間でも例え演者と観客の関係性であっても「永遠」なんてモノは無いと思うからこそ、それを無性に求める人の気持ちも何となくわかる気がする…関係が長く続けば逆に周りを含む『状況』が変化する、『状況』が変わらなくても『人の気持ち』も時間が経てば変わっていくし避けられないものだとも思う。

クラウドファンディングでエンドロールに名前を刻んでも、もう現場に現れないオタクを実際に見てきた(ちなみにエンドロールに自分の名前はない、クラファンには参加したが、金銭的都合と自己顕示欲で作品に自分の名前が刻まれる事を避けてしまった)そして完成した推しの映画を観に来たら半強制的に自分の傷と向き合わなくてはならなかったオタクが耐えきれず彼女の現場から離れたとしても致し方ないとは思うのでこれ以上の言及はしない。

男女の話で言えば、6年間同じ女性と一緒に住んだ経験があるけれども…現在はお察しください。なので敢えて演者とオタクの話をする。戸田真琴という人の現場に通って5年、大森靖子という人の現場に通って8年経つ、その間に仕事も2回転職したし『状況』は日々刻々と変わるし、金銭的にはキツくても、なんとかまだ全部を諦めずにしがみついているのは『気持ち』の方が変わらずにいられているからだと思う。

表現者は日々、新しいモノを産む苦しみと喜びがあるがオタクはその表現者を見て「明日も頑張ろう」という日々の生活の活力を貰う(お金を払って芸術を観る行為が「生産性」と呼べるものかの議論は置いておく)が、オタクとして表現者の作品を制作する糧の一部になれたのなら、結局それはそれで「永遠」に残る作品の一部になり得るのではないか?とも思う。

※劇中で彼女が叫ぶ「私誰かの力になりたいと思ってたけど、逃げてしまったんです(中略)自分が心底情けなくて生きてるのが恥ずかしくなったんです。なったことありますか?」という台詞については「M」で後述

『M』
「M」の映像世界は2人の少女のみで構成されていて、そもそも曲の成り立ち自体も戸田真琴監督と大森靖子との私的な手紙のやりとりで、本来その関係性に誰か異物が入ること自体が無粋だけど…どちらの現場にもまだ自分は存在する事を許されてて、大森さんや周りのオタクからも何かあれば思い出して貰えるって本当に幸せな事で泣いてしまう。昨年「M」の映像が大森靖子の公式MVになった事実は大森靖子と戸田真琴の二人がイベントでの共演とか、ミスiD選考委員同士ではなく、表現者同士が一緒に肩を並べて創った仕事として永遠に記録に残る事になった。それは各々の活動を少なからず追ってきたオタクとして本当に嬉しい…が、それ故にずっと大森靖子のオタクとして振る舞ってきた自分が戸田真琴の現場にいつまでも出入りして良いものか?自分が推しの為にと振る舞ってきたオタ活が本当は彼女のマイナスにしかならなかったのでは?と半年前の『永遠を探す日』からずっと悩んだ時期もあった。

『あなたは黄金のオルゴール。神様が、この世界に最後に託した、希望なんだよ。本当にごめんね、邪魔をして本当にごめん…』

表現者として「M」の子だけでは終わりたくない監督と、大森靖子のオタクであるが故にどうしても事ある毎に「M」を全面に出して映画の宣伝をしてしまいがちなオタク…いっそ自分が何もしない事の方が彼女の為になるのではないか?とすら思えたが、彼女がAV女優を残り1年で引退する発表で、今後は表現活動するにしても今までのように表舞台で会える機会は少なくなるかもしれないし冒頭のインタビューを読んで残り1年、腹を括って出来る事をやるしかないと思った(やっと話が本筋に戻ってきた)

人と人との関係性に「永遠」なんてないから、その瞬間瞬間で自分にできる事をやるしかないし、だからこそ、その先の「永遠」を求めて足掻く行為が美しく見えるのだとも思う。10代の頃「永遠」に思えた人生もいつかは終わる。中島らもが『永遠(とわ)も半ばを過ぎて』を書いたのは40過ぎだったか…だんだん自分もその年齢に近づいて、邪に命を使う時間なんて無いに等しくなってきた今の自分に書ける範疇で書いた感想(なのか?)のテキストがこれです…毎回ロクでもないテキストを書いては最終的に一番不要だなと感じていた俺自身の感想を「そういうの大事にしてよ」と言ってくれた親愛なるカントクへ向けて…
馬鹿なオタクより

この作品に流行りの映画のようなキャッチコピーを付けるとしたらこれだろうと思う

「永遠を覗く時、永遠もまたこちらを覗いているのだ」

映画を観に来た筈が自分の過去の傷がこちらを見ていて向き合わなくてはならない意味で…まんまニーチェのパクりだけど笑

ちなみに私がどちらの現場から居なくなったとしても、常に推しの頭の片隅に永遠に居たいとは思わない…スパッと忘れ去って10年後とかにフッと「あぁ、そういえばこんな馬鹿なオタクいたな…」と思い出す程度に無意識下に潜めればそれで充分です。

例えるなら、それは読み掛けの本に挟んだまま忘れ去られて、ある時に本を開いたら再会できた花びらや切手のようでありたい

『神様におまけの一日をもらった少女は
 真っ白な包帯を顔中にまいて結局、
 部屋から出ることがなかった。神様は
 憐れに思い少女を切手にして彼女が
 何処へでも行けるようにしてあげた。

 切手は新興宗教団体のダイレクトメール  
 に貼られ、すぐに捨てられ、その行方は
 誰にももうわからない。』

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