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「八月十五日に吹く風」 松岡圭祐著 講談社文庫

アッツ島とキスカ島の占領は、太平洋戦争において失敗に終わったミドウェー海戦の陽動作戦として立案されました。しかし、ミッドウェーが敗北に終わってしまった後、アメリカ軍からの攻撃を先に受けたアッツ島では、日本兵2,638名が玉砕しています。

もう一つのキスカ島は、アッツ島玉砕の後完全に孤立してしまい、絶体絶命の状況に追い込まれます。しかし、キスカ島の5,200名の日本兵は、脱出に成功するのです。この本は、奇跡的と言われたキスカ島救出作戦について書かれた小説です。


キスカ島撤退作戦の指揮官は、木村昌福(きむらまさとみ)海軍少将(当時)。木村少将は、海軍兵学校卒業時の成績が118人中107番、お世辞にも期待されていたと言うわけではありません。しかし、その後、ガダルカナルで敵機の魚雷9本をことごとくかわすなど水雷屋として一定の評価を得、また、戦いの中でも人命を大切にする艦長として知られていました。


木村少将の作戦は、キスカ島周りの濃霧を徹底的に利用すると言うものです。キスカ島の周りはしばしば濃霧に包まれますが、時に濃霧が五日ほど続くときがあります。その時を狙って作戦を展開するというものでした。


そのためには、気象専門士官による濃霧の正確な予測が必要でした。橋本恭一少尉は、2次元の天気図を3次元にまで展開して濃霧を予測します。木村少将自身も気象学を熱心に勉強します。


また、巡洋艦の煙突が2本に見えるように、真ん中の煙突を白く塗るなどの偽装をします。アメリカ軍の巡洋艦の煙突は2本なのですが、日本軍は3本だったのです。濃霧の中では、白い煙突は見えないので、敵からはアメリカ軍の船のように見えるのです。


木村少将のすごいところは、1943年7月15日の第1回出撃で霧が晴れてしまった時に「帰ろう、帰ればまた来られるから」と言って作戦を中止したことです。この作戦中止には、上官そして大本営からの凄まじい批判がありました。木村少将は、こうした批判は覚悟の上で撤退したのでしょう。

木村少将は、その後、濃霧が発生するのを平然と待ったのです。濃霧が発生した7月29日に第2回出撃を決行し、キスカ島に着岸してからわずか55分で、5,200名を収容し、無血撤退に成功しています。


この作戦は見事です。そしてそれは、その後「奇跡の撤退作戦」と言われるようになりますが、実際は周到に計算され計画された作戦だったのです。


アメリカ軍はその後、誰もいないキスカ島に艦砲射撃を加え、濃霧の中上陸しますが、駆逐艦アブナー・リードが米軍自身が仕掛けた機雷に触れ爆発し、バンザイ突撃を過度に警戒したアメリカ・カナダ軍が同士討ちをしてしまうといったことが起こりました。


ちなみにこの時アメリカ軍に従軍していた通訳官が後に日本学者になるドナルド・キーンさんです(小説の中では、「ロナルド・リーン」という名で登場します)。小説の中では、ロナルド・リーンが軍幹部に対し、「日本は命の尊さを知らぬ民族ではない」と説いたことが、アメリカの戦後の占領戦略に影響を与えたとしていますが、どの程度の影響があったのかはわかりません。しかし、実際のところ、アメリカは、このキスカ撤退作戦について相当研究しただろうと思います。そして、必ずしもバンザイ攻撃による玉砕が占領下の日本で起こらないのではないかという想定の根拠の一つにはなったのかもしれません。


戦時中の軍部の中でも、空気に流されず幹部に忖度しなかった木村少将のような人がいたということは、心強く思います。


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