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「辺境・近境」 村上春樹 著 新潮文庫

海外と国内の旅行紀行です。辺境は海外なのか?でも、イースト・ハンプトンは辺境とは言い難いし・・・。ここでの近境は、国内、しかも瀬戸内海沿岸に限るみたいな感じです。


どこか統一性がないようで、根底に流れる何か共通したものがあるように感じました。ユーモラスな部分もありますが、微妙なざわつきが時々顔を出す感じのエッセイ集です。


瀬戸内海の無人島にカメラマンと二人でキャンプに行く話なんかは、三泊の予定がさまざまなアクシデントのあげく、一泊で退散してしまうという、ちょっと冴えない話で、村上さんにもそういうところがあるのだと笑えるエピソードなのですが、夜中に出てくるたくさんの虫の話は、不気味です。


「それからひょっひょっひょっと跳ねるように飛ぶ足長の蜘蛛みたいなのがあたりを飛びまわり始める。害はなさそうだけれど、こういうのにまわりを囲まれるとそれほどいい気はしない。そしてゾウリムシみたいなやつ。こいつらは日の出ている時には砂の中で丸くなって眠っている。ところが日が暮れると、もそもそと上に這いだしてくる。そして食べ物をさがすのである。(p.41)」


こんなのがうじゃうじゃ出てきたら僕も退散しますね。でも、自然って、こんな感じなのでしょう。石油会社の社員時代、ミャンマーの奥地に行った時、弁当のサンドイッチを食べようとした途端群がってきたハエの大群と、草むらにいた名前もわからない怪しげな虫たちと、宿泊場所のバスタブの中の大量のコオロギの死骸を見た時の不気味さを思い出しました。普段は見えない怪しいものが時が来ると動き出すのです。


ノモンハンをめぐる旅では、ウランバートルからハルハ河までの移動の間に、案内してくれたモンゴル人の軍人が狼を仕留める場面があるのですが、そのシーンは、


「狼は立ち止まり、肩で大きく息をし、覚悟を決めたように僕らのほうをじっと見つめる。どうあがいてもそれ以上逃げ切れないことを、狼は知っている。そこにはもう選択肢というものはない。死ぬしかないのだ。(p.199)」


と、表現されています。そしてその夜、村上さんは、宿泊先のホテルで得体の知れない激しい揺れを感じます。


必死でドアの前までたどりつき、電気をつけた時、その揺れは治ります。そして、村上さんは気づきます。

「揺れていたのは部屋ではなく、世界ではなく、僕自身だったのだということに。(p.203)」


揺れは、村上さん自身のものであったのかもしれないし、断末魔の狼のものだったのかもしれません。


最後の「神戸まで歩く」では、著者が一人で阪神淡路大震災後2年経った西宮から神戸までの15キロを歩きます。この辺りは著者の故郷でもあります。地震の爪痕がまだ残る故郷を歩き、「来るべき暴力」とも言える、日常に潜むまだ生まれていない「暴力」を村上さんは感じたのではないかと思います。1995年1月の阪神淡路大震災、その2ヶ月後の地下鉄サリン事件を、多くの人は、直前まで全く予測できませんでした。


そのずっと後の東日本大地震と津波、そして原発事故も同様です。想定外の出来事が起こったのです。


「あれは、想定外だったよね。予測できなかったよね。それって仕方ないよね」と多くの人が言います。でも、「『想定外』は、いつか起こる」ことを、僕らは知っています。そして、それを見ないように、目をそらしながら、僕らは日々の生活を続けて行くのでしょう。


この本の中で、とてもほっとしたのが、「讃岐・超ディープうどん紀行」。

僕も、讃岐でうどんづくし旅行をしたことがあります。うどんってこんなに美味しいんだ!と認識した旅でした。この本に出てくる、「店に入るとまずおろし金と長さ二十センチくらいの大根がテーブルに運ばれてくる(p.129)」小懸家も行きました。客は、みんなうどんが運ばれてくるまで、黙々と大根おろしを作るんです。すだちと葱と生姜と七味とごまを加え醤油をさっとかけて食べるのですが、それが美味しかったです。


美味しいものを食べているときは、「来るべき暴力」を忘れてもいい・・・ですよね?


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