見出し画像

「春宵十話」 岡潔 著 角川ソフィア文庫 

ここ数年で読んだ本の中に、ノーベル経済学賞を受賞(2002年)した心理学者ダニエル・カーネマンが書いた「ファスト&スロー」と言う本があります。今注目されている行動経済学の解説書で、世界的なベストセラーとなりました。

そこでの重要な概念は、「人には、速い思考と遅い思考がある」と言うことです。カーネマンらは、前者をシステム1(衝動的、直感的思考)、後者をシステム2(論理的思考、注意深さ)と名付けました。システム1とシステム2がバランスよく働くと、人は好ましい決断をし的確な行動をするとのことなのですが、「春宵十話」の著者、数学者の岡潔さんは、1960年代に同じようなことを言っています。特に行動経済学で言うシステム1、すなわち直感について、とても深く考察しされています。岡さんは「直感」ではなく、「直観」と表現しています。そして、数学上の発見は、いやあらゆる発見は、論理的思考の上での苦闘の末に、ふとした瞬間に訪れる直観によってもたらされるものなのでしょう。


岡さんは、直観には三種類あると言います。

第一種の直観は、自明なものを自明とみる直観で、無差別智は純粋直観、または平等性智と表現できるものです。本当にこの直観を働かせようとしたら、私利私欲を除いて心の垢を払わねば出てこないもの(p.44)なのだそうです。

第二種の直観は、「たとえば俳句の歌や良いしらべを良いと断定する直観(p.45)です。芸術を見て、「あぁ、素晴らしい!」と思える力でしょう。

第三種の直観は、「無意識にいったり行動したりしたあとからそれに気づく(p.45)」ような直観で、妙観察智と言われるものも含まれます。妙観察智とは、対象を十分に観察する智慧のことです。


この中の第一種の直観があるからこそ知能に意味が生じるわけで、これを無視した知能は、「物まね指数(p.60)」にすぎず、「みなが違うというのだから違うのかなあ(p.60)」というふうに、実は自分の頭で考えていないということが起こります。例えば、いき過ぎたポリティカルコレクトネスによる言葉狩りに執着してしまった場合、それは、「モノマネポリコレ」であるかも知れません。「ポリコレにも程がある」ってこともあるわけです。


僕の解釈では、第二種の直観は、感性とでも言えるのかと思います。「評論家の誰それが褒めているから、このミュージシャンはいい」というのとは、全く違います。若い人たちは、比較的よくこの第二種の直観が働いているのでしょう。だから、新しい新しい才能を見つけやすい。歳をとると、第二種の直観が奥に引っ込んで、どうも屁理屈の多いエセ評論家になりがちです。でも、奥に引っ込んでいるだけですから、エセ評論家をやめれば直観は戻ってくるのだろうと思います。


見られる自分と見る自分と、自分を二つに分けることができる(p.45)のは、第三種の直観の働きによるものです。自分を俯瞰する能力に通じるものだと、僕は考えています。得意の絶頂の時に、「いや、でも私は間違っているかもしれないぞ」と不安になるのもこの直観の働きです。岡さんは、「この不安な気持が理性と呼ばれるものの実体ではないだろうか。ところがその不安、心配、疑惑を取り去ってしかも理性らしい頭の働かせ方をすると観念の遊戯といったものになる(p.72)」と言っています。反論に聞く耳を持たず、ポジショントークのスタンスを絶対に変えようとしない、ある種の人たちは、真の理性ではない「観念の遊戯」に耽っているだけと言えるでしょう。


このように、直観についての岡さんの考察は非常に深く、カーネマンらの先を行っているような感じがしました。

名著は、年月が経っても色褪せないものですね。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?