死のとらえかた

2020年10月のある日に書きかけていた文章を見つけた

そのまま下書きに留めておこうかとも思ったが
やや支離滅裂だった内容に加筆修正を加え
弔いの意味も込めて公開することにした
(2021.2再編集)

***

かつての恋人が死んだ
大動脈瘤解離で急死だったらしい

衝撃だった

これまでだって
じじやばばの死もそれぞれ私に大きなインパクトを与えたし
20代前半には自身が悪性腫瘍摘出を経験したこともあったし
だからというわけではないが
「生死」については随分深く考えてきた


ほんの5,6年前にかなり濃いめな人間関係を築いた人がこの世を去った
という事実はあまりに衝撃的で
聞いたときは何も考えられなかった
頭が真っ白になる、というやつをリアルに体感した

知ったのは死去した2日後、通夜の晩だった

このタイミングも私を驚かせた

なんせ亡くなった彼(以下Sさん)と別れたあと
私は別な男性と結婚(その後離婚)し
Sさんに会うことも思い出すことすらもほとんどなかったのだ

なのに

その日はたまたま急に飲みたくなって親友を誘い
待ち合わせ場所にあるバーを選んだ

かれこれ10年以上通っている馴染みのバーで
宇宙レベルに心の広いマスターは
Sさんも含めた私の歴代彼氏・恋愛遍歴を知り尽くし暖かく見守り続けてくれている
Sさんとマスターはゆるく仕事も関わっていたし
つまりは別れた後も2人とも変わらず通っていた
(そういえば一度別な女性を連れている場面に遭遇したこともあった笑)

先客の常連さんはすでに仕事関係の方から訃報を聞いており
私の様子を伺いながら言葉を選びつつ教えてくれた

店に入ってきた私を見たとき「知ってて来たのかと思った」らしい

もちろん寝耳に水だったわけだが
ただ…その日私はSさんに呼ばれた、と信じている

一応断っておくが
私は霊的なものは信じていない と言うかあまり興味がない
それでも「呼ばれた」なんて言うのは理由がある

そもそもその日急に飲み行くことになり仕事を終えて一旦帰宅した私は
わざわざバーで待ち合わせせずに家にいても良かった
(地方都市で歓楽街から徒歩圏内に住んでいるため)

さらに嘘みたいな本当の話だけれど
バーへ向かう道すがら当時Sさんが着ていたのと似たジャケットの男性とすれ違って
「そういえば元気にしてるのかなぁ?」
なんて珍しく思い出していたのだ
奇しくも数日後がSさんの誕生日だったことも印象的だった

こうした偶然にさすがにビビって皆に話したら
「呼ばれたね」で満場一致だった

「先週入れたばっかりだったんだよ」と
マスターはほぼ満タンのSさんのジャックダニエルを出してくれた
みんなで献杯した
私の隣の席にはきっと座っているであろうSさんのグラスも用意して

ショットを流し込んだ途端
何かのスイッチが入ったように涙が溢れ出た

一体どんな感情なのかもよく分からないまま
止まらない涙と鼻水をひたすらティッシュで吸収し続けた

涙がおさまった頃に待ち合わせの友人が到着し
泣き顔の私を見て「今日は何さ~?」とニヤニヤされたが

事情を伝えると絶句していた
当時は散々Sさんの話を私から聞かされていたし、彼女もSさんと何度か一緒に飲んだこともあったし
驚きも当然だ

その日はちょっと飲もうぜのノリだったのに
店を移ってからも妙にしんみりした飲みになった

数日間はどう受け止めていいか分からず
不意に涙が出たり心が落ち着かなかった

地方新聞の電子版でお悔やみ欄をわざわざ見にいったりして
誕生日目前で亡くなったその享年を見て
「良かったじゃん」なんて思ってまた泣いた

ただ、正直Sさんの死は「実感」がなく
私の日常にはまったく影響がない
驚くほどに

とても寂しいことだがそれが現実だった

偶然にも死の2日後という早いタイミングで訃報に触れ
Sさんと近しい人たちと共に悲しみを分けあったけれど

あの日あのバーで待ち合わせをしていなければ
もしかしたら未だに知らずに生活していたかもしれなくて

知らなかったら
私としてはSさんは今でも生きていたかもしれないのだ
何かの拍子に思い出してそれこそ
「そういえば元気にしてるのかなー?」
なんて呑気に思ったりしてたかもしれないのだ

そうなってくると、いよいよ分からなくなってくる

生きていることや死んだことってのは
一体どういうことなんだろう?

これは元彼云々じゃなくて
誰にでも置き換えて考えることができる

身体的な活動がすべて止まり肉体の死が訪れ、それと共に精神活動も終わる(宗教によっては魂が出ていくとか色々あるだろうが)というのは
現実的かつ一般的な「死」の意味するところだが

概念的にはそれ自体が「死」だと言い切れないような気がしてしまう

別に「○○さんは心の中で生きています!」とかそういうことを言いたいのではなく

まして本人の死後のことは死んでみないと分からないので
議論のしようもないけれど

本人ではなく環境側?いわゆる遺された側
にとって「ある人の死」の意味とはいったい何なのだろう

だって「死」を認識するのは
本人じゃなくて生きてる人間の方だから

「元気でもいつ死ぬか分からないし、後悔の無いように生きようと改めて噛みしめる機会を与えてくれた」とか
「きっと見守ってくれてるから恥ずかしくないように生きよう」とか
教訓を得たり
忘れないと誓ったり
それも大事というか尊いけど
なんだかな…と思う

すごく自分(たち)の為な感じだし
本質的じゃない感じ

いや、それで全然いいし
故人との関係性によって捉え方なんて様々で
良し悪しなんてないのだけど

そして結局自分にできることをできる範囲で死ぬまでやってくことしか
生きてる人間には出来ないけれど

だけど

「死」って絶対的なものじゃないかもって
実はなんだか流動的で曖昧なんじゃないかなって
そんなことを初めて強く感じたので
書き留めておきたかった

逆説的にいうと
そんなことを思うような距離感だった「だけ」かもしれない

まぁごちゃごちゃ言うているものの
結局いま思うことは至って普通で

あの頃は本当アホみたいに好きだったなぁ
とか
もう一回くらい一緒に飲みたかったなぁ
とか
嫌なことも楽しいことも今となってはいい思い出だしその頃あってこその今だし、感謝しかないなぁ
とか
すごく平凡だ

ペラッペラで嘘っぽくて陳腐だ
現実なんてそんなもんだ

もし仮に天国みたいなものがあるなら
(そしてちゃんとそこに行けてたら笑)
好きなだけジャックでも飲んで
この世であくせくしてる私たちを見下ろして笑ってて欲しい



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?