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カンヌ映画祭2024日記 Day9

5月22日、水曜日。6時20分起床のつもりが、気付くと6時40分。連日4時間睡眠でもアラーム前に目が覚める時差ボケマジックがとうとう薄れてきた?とはいえ、もう朝のチケット予約作業が無いので、余裕で支度して、外へ。本日も朝から快晴。ただ、気温はさほど上がらなそうで、Tシャツにジャケットを羽織る。
 
8時半から「ある視点」で、フランスのアリアンヌ・ラベド監督による長編第1作『September Says』。舞台はイギリスで全編英語の作品。
 
セプテンバーとジュライという10か月違いで生まれた姉妹の物語。妹のジュライは内気でいじめられがちなところを、気が強い姉のセプテンバーが守っていく。2人の濃い関係は周囲にトラブルを生んでいくことにもなる。父はおらず、母親は自由奔放と情緒不安定の二面性を持つアーティストであり、2人の娘に有形無形の影響を与える。

"September Says" Copyright New Story

他者を受け付けない姉妹だけの世界に、少しずつひびが入っていく状況が物語を作っていくのだけれど、母親を含めた3人の人物像がいまひとつ掴みづらく、感情の入れどころを探してしまう。全体的にもどこか既視感は否めず、突き抜け切れていないかな…。少し残念。
 
続いて11時から、同じく「ある視点」部門で、ヴェトナムのミン・クイ・チュオン監督によるフィクション長編第1作『Viet and Nam』。こちらはディープなアート作品。アピチャッポンやラヴ・ディアスの系譜にあるアート系スローフィルムとくくるのは乱暴だけれど、アジアのアート映画の優れた時間が流れている。

"Viet and Nam" Copyright Nour films

2000年代冒頭と思しき時代、炭鉱で働く2人の青年が劣悪な環境に身を置きながら、愛を育んでいる。彼らはふたりとも父親をヴェトナム戦争で失っている。夫を亡くした女性や、腕を失った復員兵らとともに森に入り、当時のゲリラの拠点を訪れ、戦争の痕跡に触れていく。
 
というのは、おそらくは物語のひとつの側面でしかなく、リニアなストーリーで引っ張る作品ではない。物語を追うことは早々に放棄し、現世代がヴェトナム戦争を振り返る視点に関心を集中し、画面を凝視する。昨年のカメラドール(新人監督賞)はベトナムの『Inside the Yellow Cocoon Shell』だったこともあり、ベトナムのアート系作品の新鋭たちの勢いを強く感じる。
 
13時15分に上映が終わり、いったんホテルに戻り、途中スーパーに寄ると、今日はランチ系を売っている!ということでパスタサラダを買い、1週間ぶりに昼食を食べる。

15時に外に出る。時間が空いたので、少し海岸沿いを歩く。たまには海の写真を。

15時に外に出て、16時からコンペで、ルーマニアのエマニュエル・パルヴェ監督による『Three Kilometers to the End of the World』
 
ルーマニアの超保守的な村で、青年が激しく暴行される。親が警察に届け、調査が始まるが、青年がゲイであることを知った地元の若者によるヘイトクライムであったことが分かる。親は青年をかばうどころか、同性愛を「治そう」とし、事件が無かったことにしようとする、という物語。

"Three Kilometers to the End of the World" Copyright Memento Distribution

LGBTQを主題に持つ映画が様々な形で進化している中、まだここ?と思わせるようなプリミティブな設定に戸惑う面はあるものの、現実にはカミングアウトが許されないような地域が世界にはまだまだ多いのだろうとも気付かされ、そこに痛い普遍性もある。脚本に淀みはなく、リアリズムを軸にした演出も安定しており、集中して見ていられる佳作だ。
 
18時45分から、「スペシャル・スクリーニング」部門で、アルノー・デプレシャン監督新作『Filmlovers! (仏題:Spectateurs!)』(扉写真も/Copyright CG Cinéma)。デプレシャンによる、珠玉の映画エッセイ。
 
デプレシャンの幼少期から青年期に至る映画体験を、デプレシャン作品における分身であるポール・デラリュス少年のものとして振り返り、そこに古今の作品のフッテージを交え、映画が観客の人生に与えうる意味について考察していく作品。再現ドラマの部分と、ドキュメンタリーの部分と、エッセイ的な部分とが組み合わさり、映画体験を巡る豊潤なタペストリーが織られている。もう、映画ファンに本当に堪らない。

"Filmlovers!" Copyright CG Cinéma / 少年はテレビでヒッチコック『白い恐怖』を見ている

若き日々の体験だけでなく、成人してから初めて『ショアー』を見たときの衝撃を深く掘り下げたり、ケント・ジョーンズにインタビューしたり、観客の立場から映画をいかに捉えるかを巡り、自由に作品は脱線していく。
 
あるいは、「映画はありのままの現実を映す」、とのリアリティーを巡るアンドレ・バザンの言葉が引用され、ではそれがスクリーンに上映されるとどうなるか、というデプレシャンの問いかけや、劇場/映画館論のレクチャーも、本当に面白い。僕が気付いた限りでは、大阪のシネ・ヌーヴォーが一瞬映る!
 
僕は常々映画館で映画を見る魅力について、大勢の観客と一緒に感動を分かち合う的な言い方にしっくり来ていなくて(まあ、自分でもそのようなことを言ったりしてしまうことがあるけれど)、それが本作を見て、本当の理由に気付かされ、目からうろこが落ちた。古今の映画の引用も面白くて、例えば『ある夜の出来事』と『ノッティング・ヒル』を並べて論じる(というか詩を詠むに近い)下りなど、なんと刺激的であることか…。
 
ああ、キリが無いのでやめよう。映画ファンには一家に一台的な本作、何度でも繰り返し見たい。
 
21時から、コンペで、パオロ・ソレンティーノ監督新作『Parthenope』。あまりにも優美な空気に満ち、おそらく賛否を分けるであろう問題作。

"Parthenope" Copyright 2024 THE APARTMENT SRL - NUMERO 10 SRL - PATHÉ FILMS ALL RIGHTS RESERVED - Gianni Fiorito

1950年のナポリ、裕福な家庭に女児が生まれ、パルテノーペと名付けられる。美しい女性に成長した70年代を中心に、パルテノーペの人生の断片が語られる。
 
複雑な物語は無いだけに、カギとなる展開には全く触れない方がいいはずなので、上記に留めよう。ソレンティーの持つ、壮大で優雅で甘美でノスタルジックな要素がそれぞれ数倍メガ盛りの規模で輝き、現実と夢の間を行くようなゴージャスな作品。茫然となるばかりで、感想を消化するのに時間がかかる。
 
新人女優セレステ・ダッラ・ポルタが扮するパルテノーペの美しさが、崇高なレベルで強調される。しかし、何といってもDay7で触れたコラリー・ファルジャ監督の『The Substance』で、男性目線の「美」の持つ有害性に衝撃を受けたばかりの我々には、若い女性の美しさを崇める映画を無批判に受け入れていいのかという戸惑いが、どうしても付きまとってしまう。
 
序盤はそういう戸惑いとともに画面を眺めていくのだけれど 、そしてこれはまだ文章化するに至るほど考えがまとまっていないと断った上で書くとすると、ソレンティーノは現在の論点は承知した上で、そこを克服しようとしているのではないかとも思えてきた。美は美として絶対評価的に認めつつ、美が美以外の要素に波及しない状況を描いているのかもしれない。劇中、パルテノーペは、美を武器にしない。あるいは、武器にならない。美は美でしかない。美と欲望は切り離されている、ように見える。
 
そして、神話のオデッセイヤに登場するサイレン=パルテノーペは、歌で男を殺す海の怪物であるわけだけれど、天国のように美しいナポリの海を臨む屋敷にて、パルテノーペの姿にイタリアの哀愁の歌曲が流れる時、映画は神話とシンクロしてくるだろう…。
 
ああ、さすがソレンティーノ。
 
頭がゆらゆらになりながら会場を出て、肌寒い夜のカンヌの道を呆然としながら歩き、23時半にホテルに帰還。ちょっとパソコンに向かい、本日は早めの1時に就寝。

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