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鬼滅の刃は、走馬灯が肝なんじゃないか?仮説

ゴールデンウィークは、鬼滅の刃にハマってしまった。アニメを見て、コミックを全巻買って、いまでは様々な人の考察を読むまでに。

生業としてコミックを販売している身からすると、鬼滅の刃は異常な売れ行きだ。「キングダム」とか「進撃の巨人」とかビックタイトルはあるけど、そのビックタイトルの数倍の反響で、もはや、社会現象の一つの感がある。

なぜ、そこまで鬼滅の刃がウケたのか?

ストーリーがジャンプっぽい王道だけどスピード感があるという説がある。鬼にされた妹を助けるために鬼狩りになり、仲間と一緒に、鬼を倒す。ドラゴンボールにせよ、ワンピースにせよ、フォーマットが一緒だ。一つ違うのはテンポが異常に早いということ。20巻で最終決戦だもんね。だらけない。

アニメ化が肝だったという説もある。声優陣が超豪華(松岡禎丞とか俺でも知ってる)だし、アニメの作画も超きれいだし、主題歌も超カッコいい。

キャラが良いという説もある。鬼も人も一人一人の背景を丁寧に描写してる。ここにもう一個、僕の説を付け加えたい。「鬼だろうが人だろうが、死ぬ前に走馬灯のように彼らの人生を描写する」フォーマットこそが、キャラの大事にしてるメッセージを引き立たせてるんじゃないか?

これに気づかせてくれたのは、猗窩座 (あかざ)だ。
僕は、猗窩座 (あかざ)が大好きだ。
でも最初は嫌いだった。

最初の登場シーンはインパクト大。

主人公はまだ弱すぎて師匠の煉獄が戦う。序盤は互角だが、徐々に猗窩座 (あかざ)が優勢に。猗窩座 (あかざ)は弱い人間が大嫌いだが、強い人間は好き。煉獄に鬼になれ、そして主人公を見捨てろと誘うのだ。

煉獄はきっぱりと断る。弱き仲間を守ることが使命だからだ。それは、彼の病気の母親から教えてもらった信念だ。

そして、煉獄は、戦いの果てで、主人公たちに己の弱さや不甲斐なさを見つめ立ち向かうことを諭し、死んでしまう。ここまではさ、猗窩座 (あかざ)はただの悪だったんだよね。

時は流れ、主人公と猗窩座 (あかざ)が再戦。猗窩座 (あかざ)が敗れるときに、彼がなぜ、弱い人間が嫌いなのか?が明かされていく。彼は無実の罪で自分の大切な人が殺されたときに修羅になったんだよね。で、鬼にされた。

これが泣けるんだよ。

結局、煉獄と猗窩座 (あかざ)は、同じテーマにおける裏表だと気づかされる。弱き大切な人を亡くした(猗窩座 (あかざ)は許嫁、煉獄は母親)とき、猗窩座 (あかざ)のように弱いことを認めないようになるのか、煉獄のように環境を受け入れ弱いものを身を呈して守るのか。

で、ポイントは、猗窩座 (あかざ)の死の際に彼のストーリーを知ることで、猗窩座 (あかざ)のことを急激に愛おしくなったし、彼に別の道はなかったのかを真剣に考えてしまったという点だ。

たとえば、煉獄がドラゴンボールで生き返ったら、弱いものを守ろうというメッセージは引き立っただろうか。

たとえば、猗窩座 (あかざ)のストーリーを彼が生きてる間に、彼がベラベラ喋ったら共感できただろうか。

死という非可逆な瞬間に一貫したストーリーが語られるからこそ、あざとさがない。普段当たり前すぎて見落としている大切なこと(実は贈与されたもの、ギフト)に気づくことができる。猗窩座 (あかざ)のストーリーを読んだ後は、大切な人がいることが当たり前じゃないことを感じ、少し自分の大切な人に優しくなれるはずだよ。

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