ラの音が出ないピアノ
モナカのピンチ
この話をするのは3年前の2018年まで遡らなければならない。新年が始まってまもない1月7日早朝のこと。愛猫のモナカが吐いている。猫は舐めて毛づくろいをするのでよく毛玉を吐き出すが、その日はいつもと違っていた。僕はベッドの中でうつらうつらしながら異変を感じ、起きてからも20分に1回のペースで吐いているのを確認した。
全くおさまる気配がないので、歩いて7分くらいの動物病院に連れて行った。急性腎不全と診断されすぐに点滴がほどこされ、その日は強い薬を入れるなどの治療をするため入院に。猫の急性腎不全とはどんな病気でこの先どうなるのか、何度も検索したくさんのサイトに目を通して「命に関わる重病」「一度弱った腎臓は元に戻らない」ことを知る。
冒頭から切ない話で大変失礼しました。安心してください。3年7か月経ったモナカは今日も元気にピンポン玉を追いかけて走りまわっています。
入院した日の夜中に病院から電話が掛かってきて、容態が悪い、このままだと朝までもたないかもしれないと。出来ることは2つ。迎えにいって自宅で最期を一緒に迎えること。もう一つは手術をすること。2つ目の選択肢にはたくさんの補足が付いた。尿道自体を人工のものに入れ替える大がかりな手術で、体力が弱っているモナカにとって負担がかなり大きいため術中に亡くなる可能性があること、手術が成功しても完全回復はできずそのあとの余生がいかほどかは全く分からないこと、そして設備のある町田の病院に連れていってそこの先生と一緒に手術をしたりとどうしても手数と道具と検査が多く70万円ほどの費用がかかってしまうこと。
あまり楽しくない話が続いて本当にすみません。安心してください。手術することを選び、先生たちのご尽力によって一命をとりとめて、モナカは今日も元気に走っています。
渡されたテキストは「シニア・ピアノ教本」
閑話休題。
この1年半は外出する機会や出勤時間が減って自宅で過ごす時間が増えた。今年に入ってから思い切ってピアノ教室に申し込んで週に1回レッスンに通っている。40を過ぎた楽器未経験者がいまさら始めたきっかけ? えーと、深いエピソードは全くなくて、中高生の頃に合唱コンクールで伴奏できる人がかっこいいってずっと思ってたこと、もう一つはロングバケーションというドラマで瀬名(キムタクが演じた主人公)が弾くピアノがかっこいいってずっと思ってたこと。そんなささやかな理由で新しい趣味が始まった。
週に1度のレッスンだけではもちろん上達はしないので、自宅で練習できるようにと電子ピアノを購入。6万円くらいだったと思う。レッスンで次回の課題が提示され、弾けるように家で練習して次のレッスンで披露するという流れで、合格すると先生から花丸がもらるってわけ。最近苦労したのはピアノ・ソナタ第11番。クリアするのに3回のレッスンを要したけれど、大人になって年齢を重ねて経験値がたまってくると、過去の経験や小手先で乗り越えられることが多くなり、新しいことにチャレンジしたり知らないジャンルを勉強する機会が減っていた中でものすごく新鮮な体験だ。ピアノ教室の生徒の多くは小中学生で、「すごーい!1回で直ったね」とか「お、練習がんばってきたねー」とか先生は僕に対しても子供たちと同じように接してくれて、そのせいかピアノに向き合っている時は仕事のことや社会のしがらみなど何もかも忘れた純真な少年に戻れる気がしている。
ロンバケの中で瀬名がよく弾いていた「Close To You」とか映画・菊次郎の夏の主題歌「summer」が弾けるようになるのが目標。そのために毎日こつこつ15~30分くらいは練習するようにしているのだけど、実は我が家の電子ピアノは「ラ」の音が出ない。下の「ラ」っていうのかな。左手の伴奏でドファラはよく出てくるけど、ドファしか出ない。そんな弱点を持ったピアノで練習していることは、ちゃんと音楽をやっている人には怒られるかも知れない。
最初は81個の音が出なかった
で、ここでモナカの話に戻る。手術のおかげですっかり元気になったけど、腎臓は病気の前には戻らないので、2つある腎臓の内の一つはかなり小さくなってほぼ機能していないらしい。残り1つの腎臓に負担をかけないようにと、療養食しか食べられないし、1日おきに自宅で120ccの注射が必要だし、1日2回薬も飲んでいるし、2か月に一度は車で片道45分の病院に定期健診に行かねばならない。ただそれ以外は普通に生活できるし、食欲もあるし、走り回る元気もあるのでモナカ自身も僕も生きているだけで丸もうけ、幸せと思っている。
ただおしっこが少しばかりコントロールできないようで、尿意をもよおしてから我慢できる時間がすごく短いらしい。思い立ったらすぐおしっこができるように家の中には5か所もトイレがある。しかし、時にはトイレまでも間に合わないことがあって、うっかりおしっこしてしまったのが不運にも電子ピアノの上だった。モナカの名誉のために言うけれど、いかなる時も表面がツルツルの場所ではしない。砂っぽくザラザラしたものや布の上でしてしまうのだが、電子ピアノでいうと鍵盤の向こう側にあるスピーカーの布張りの部分が現場となってしまった。
ご想像の通り、電子機器だからこそ水気に弱く間もなくすべての音が出なくなった。修理した場合の見積もりを待ちながら丸2日経ったある日、「電子機器は濡れても乾いたら直る」という定説を思い出して、恐る恐る電源を入れると…鳴った。音がで出た! ただ1つだけ、下のラの音だけが鳴らなかった。
買い替えも考えた。ドファラの美しい和音が弾けないのは残念だけど、81もある電子ピアノの鍵盤の内、たった一つ弾けないくらいはどうってことないではないか。下のラには申し訳ないけれど、右手が良く使うドレミファソラシドの音階から犠牲が出なくてよかったとさえ思う。
そう、初心者の僕はもっと悩ましい問題をたくさん抱えている。例えば、自宅では楽譜通りにしっかり出来るのに、レッスンの時間に先生の前では全然弾けなくなる現象に比べたら、たった1つくらい音が出ないことは些末な問題なのだ。
今日も僕はラの音が出ないピアノで練習をする。
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