「男は金だよ」
下を向いている時、強制的に上を向かされる。「無理に」ではなく、「自然と」だ。私の中で「自然の優しさの摂理」と呼んでいる。別段信心深い訳でもなし、鳥居の奥で手を合わせても願うことのないまましばらくの無言の後お辞儀をして終わるけれど、これに出逢う時だけは、いつも心の中でそっと手を合わせたくなる。
仕事は嫌いではない。けれど疲れは溜まる。裸の肉体労働。サウナで週一癒していた習慣は引越しと共になくなった。サプリメントじゃ補完出来ない、人工物には限界がある。重い体で時計を見ると発車2分前。走れば間に合うかもしれないが、そんな賭けに出る元気はない。その次の電車が勤務に間に合うギリギリの時刻表。早々に諦めて、近くのコンビニの灰皿の前で俯き加減に火を点ける。
白煙を吐き出すと、声を掛けられた。以前上野で声を掛けられた、真冬に雪駄作務衣の堅気でない男性を思い出す。振り返ると、それよりずっと年を重ねた、温和そうな老人が立っていた。手元には、あと一口という程の短さになったhi-lite。
「かれこれもう60年吸ってるよ、これ一筋」
職人だという彼は、優しい声音で帰りかい、と訊いた。これからです、と応えると、全てを理解してくれた様で話を続けた。
「昔は5だの10だの、ぽっと置いてったもんだよ」
今は客も少ないし、羽振りも悪いだろう。続くそんな言葉にかつての業界も想像するも、あくまで想像に留まるだけだ。バブルが弾けた後に生まれた私にとって、テレビで見るギラギラとした世界しか知らないし、それはリアリティのある過去ではなく、限りなくファンタジーだ。だから「男はやっぱり金だよ」と言った彼の真意も多分分からない。分からないながらに、時と場合に寄るんじゃないですかね、と少なくとも嘘ではない返事をした。
「昔それに憧れたよ」
彼が指差す私の手元のセッターは、気付けば半分になっていた。当時値段が高かったらしい。相手の指先にはもう、吸う長さは残ってはいない。指先が熱くなかろうかと、少し心配になった。
「貴女は、モテるだろうね」
男と社会の金の話から、いつ間にか会話のベクトルが此方を向いていた。慌てて首を横に振る。謙遜ではない。続ける言葉を探す私に、彼は言葉を続ける。
「一目見れば雰囲気で分かるよ。嫌味を言わない。優しい人は」
紡かけていた言葉は行き場を失った。86だという彼の目があまりに綺麗で、刻まれた皺それこそが優しさを証明していたし、優しい人からの言葉はどうにかして受け取らなくてはいけないと思ったから。私にそれを受け止められるかはともかく。
形ばかりの言葉には意味がない。ましてやこんな人の前では。急いで組み立てようとした言葉はついぞ形にならなかった。それで良かったと思っている。
気付けば彼は煙草を灰皿に捨て、コンビニへ向かっていた。「行ってらっしゃい」とその背中に投げ掛けた。それは心から思った言葉だ。「おかえりなさい」と、またいつか言えるといいなと思ったから。見送ると私も慌てて吸殻を捨てた。早足だった。多分、時間には余裕があったのだけれど。こういう時、時間の速さは早いように思えて通常運行だ。だからどちらかと言えば足取りがさっきよりぐんと軽くなったせいだ。たまにあるこういう出逢いが、ファッションスモーカーの私が煙草を手に取ってしまう一番の所以だと思う。仕事に、行ってきます。
出勤前に飲むコーヒー。ごちそうさまです。