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私が祖母とさようならするまで【後編 2024.2月】

顔を見るその時までわかっていなかった
時間がないということ

旅行が終わってからは約1年間の間、何度か叔父から祖母の様子について連絡をもらっていた。
8月に大腿骨を骨折してしまったことで手術をし、無事成功したが車椅子生活になってしまい、退院してからは施設でリハビリはしているようだった。
9月には母が祖母の暮らす施設を訪れ、思ったより元気だったと教えてくれた。そんなこともあり、一時心配はしたが、少し安心もしていた。

しかし、10月にまた施設の室内で転倒し、今度は右上腕を骨折してしまい、また手術をすることになる。
度重なる入院や手術の連絡を受けながらも、私は会いに行くことができずにいた。

2024年1月
祖母が再び入院したと叔父から母に連絡があった。
母からの「命の危険がある」という連絡は、その文章だけ浮き上がって見えた。
その日は休みで、家の近くでお昼をとっている最中だったが、そのまま実家に行って、母と叔父からの連絡を待った。

しばらくすると叔父から連絡があった。入院の書類や手続きでバタバタしていたようだった。
今は面会制限が厳しく、これから移動したところで会えないだろうとのことで、私は今日は移動はせず、その後も連絡を待った。
その後すぐ手術の日程が決まり、母はひと足先に面会に行くことになった。

それから二度、日帰りで祖母に会いに病院に面会に行ったが、回を重ねるごとに明らかに話せる言葉は減っていった。
しかし、認知症を発症してから今までで、一番しっかりと会話ができる印象だった。私に対して「わざわざ東京から来てくれたの、お見送りできなくてごめんね」と言っていた。

なんとなく嫌な予感がした。1年前に旅行に行った時は、一往復の会話がやっとで、同じことを聞き返されていたのに、今は普通に持続的な会話ができる。もしかしたら、体に使うエネルギーを使い切ろうとしているのかもしれない。その時まで、残された時間は、とても少ないと気付かなかった。


おばあちゃんと家に帰る。

「私は、お母さんの最期を看取るまでこちらにいようと思います。いつ付けになるかわからないけど、退職します」

母からの連絡があったのは2月1日の夜だった。
母は今勤めている職場を退職し、しばらく祖母といると決めた。と、言うことは病院と今は誰も住んでいない祖母の家を往復すると言うことだ。

その1週間後、「あなた、介護休暇とれない?」と、母に聞かれるまで、私は休みのたびに帰るという選択肢しかないと思っていた。

母は、祖母を最後は家に帰らせてあげたいと思い、叔父や、病院やケアマネジャーと話をしていた。祖母は施設にいる時も「そろそろ帰りたいから迎えにきて」とずっと言っていた。面会制限もない分、家に帰ればいろんな人に会いに来てもらえるし、病院からの電話に怯えなくてもいい。なによりきっと、祖母が家に帰りたいと思っている。

叔父夫婦が隣に住んでいるにしろ、母はひとりでは心細いだろう。そうじゃんそういう制度があるなら使おう。私は週休と介護休暇を合わせて、13日分休みを取った。私が休みを取って3日後に祖母は家に帰ってきた。無事に帰ってきた日に、
「うちに帰ってきたよ」
と話しかけると、小さく家のある住所の町名を言っていた。家に帰ってきたことは、わかっていたようだった。

病院からの連絡に怯えることがなくなったにしろ、気が休まるはというわけではなかった。
寝息が静か過ぎて不安な日は眠れず、テレビを流し見しながら折り紙をし、たびたび祖母の顔をのぞいた。あまりしっかり休めず、私も母もしっかりは眠れない日が多かった。

祖母が家に戻って数日経ったある日の昼、インターホンが鳴った。
そこには、一年前に旅行に同行した祖母の弟、大叔父の姿があった。横須賀からひとりで、実の姉に会いに来たのだ。
大叔父は時間の許す限り祖母の近くで声をかけてくれ、じいさんが出すから!と言って夕飯を買うためのお小遣いをくれた。私も一年ぶりの再会が嬉しく、母と一緒にたくさん話した。大叔父は一日泊っていった。

翌朝、帰りの新幹線の時間が近づくと、離れがたくなった大叔父は泣き崩れてしまった。
私と母は毎日少しずつ変わっていく祖母を見ていると、少しずつ気持ちを準備をしていく時間があった。このままゆっくりと祖母は弱っていくとわかっていた。大叔父は違う。最後に会ったのは一緒に旅行をした時。今、唯一残る兄弟で、大事な姉なんだ。

私は駅のホームまで大叔父を送った。
祖母が亡くなる5日前だった。

数日後、私も一日だけ仕事をするために東京へ戻った。


最期の時まで、気遣いの人だった。

2月26日
「セキさん亡くなりました。」
仕事のために一日だけ東京に戻り、いつもより少し早く出勤した私は、昼頃に母から祖母が旅立った連絡を受けた。母と叔父夫婦に両側から見守られながらだったという。

私は、良かったと思った。
ほんの2週間足らずだが、祖母の近くで生活しながらどこかで、孫の中で私だけが祖母が弱っていく姿をまじまじと見ていることに複雑な思いを持っていた。

5人いる孫のうち、私だけが亡くなる瞬間を看取ることになっていれば、今までの生活も含めて「私だけが最後まで一緒にいた」ことにならないかと思っていた。
時間が取れるから私が進んで引き受けたことなのに、私はどこか、どうして私だけ。と思っていたのかもしれない。そのくらい、この期間は辛かった。

しかし、他の4人も時間を作り、病院にも、家に戻ってきてからも何度も会いに来てくれた。施した事やかけた時間で愛情の度合いを計ることは愚かなことだと思った。そんなことを考えながら看取ることを、祖母は望んでいないと思う。
きっと、4人も私と同じ環境で仕事や日常を送っていたら、ここにきて祖母の介護をしたいと思っただろう。

祖母が亡くなった直後、今まで口呼吸で寝ていたこともあり、口が開いたままだったというが、母が看護師と「閉じてあげたいけどね」と話して次に見た時には閉じていたという。最後まで聴覚は残るとよく聞くけど、こんなことあるのかと驚いた。
祖母は「閉じといた方が良さそう」と思ったのかも知れなかった。看護師さんに聞くと、だんだん開くことはあっても急に閉じることはないらしい。
そんなところまで気を遣わなくていいのに。


どんなに尽くしてももっとできたと思うのは、その人を心から愛していたから。

私はとんぼ返りで祖母のもとへ向かった。
着いた時には、祖母のために借りた介護用のベッドは既に搬出されていて、香典返しの紙袋が並んでいたが、部屋全体はがらっとしていた。

祖父と曽祖母の仏壇のある仏間に、祖母は寝かされていた。本当に寝ているみたいだった。
点滴で浮腫んだ足はそのままなのに、肌は全て冷たく、固かった。

私は自分の持ってきたメイク用品で祖母に最後の化粧をした。化粧をすると余計にただ寝ているみたいだった。しばらくは祖母の顔を眺めていたが、体の上に置かれた大量のドライアイスのおかげか、仏間はいつも以上に寒く、長くはいられない。

それから親戚やご近所の方が弔問に来てくれたり、葬儀屋さんが祭壇を作りに来てくれたりと、人の出入りが多かった。そしてそのまま通夜、葬儀場での祖母との最後の一泊、葬儀の日まで、目まぐるしく過ぎていってしまった。いろんなことがあったと思うが、あまり細かくは覚えていない。

私は初めて火葬場で遺骨を拾った。
大腿骨を手術した時の、チタンの人工骨が焼けずに残っていて、間違いなく祖母だということがわかった。骨になった祖母を見たらもっとショックを受けると思ったが、そんなことはなかった。どう表現したらいいかわからないが、体って本当に、魂の入れ物なだけなんだ。と思った。祖母は、どこかで自由にしていると思う。先に旅立った祖父と出会えてるだろうか。

27年前、祖母に抱かれる私。
後ろは静かにお絵描きをする偉い姉。

私は何度も何度も、もっと何かできたと思った。
元気なうちにもっと会いに行ってあげていれば。一緒にいた時間も、もっとできたことがあったかもしれない。母は、そう思うのは、その人を心から愛していたからだと言った。尽くしても尽くしても、思い当たる限りのことをしてあげたいと思うほど、大事な人だったという事だと。

またいつか、大事な誰かを見送ることになるのかもしれない。また同じような思いをすることに、自分が耐えられる気がしない。できれば、もうこんな気持ちにはなりたくない。きっとそうはいかないんだろうが、祖母はこの期間、人が人生を閉じていく過程を、私たちにしっかりと見せてくれた。私たちに、受け入れる時間をたっぷりと作って。

まだまだ祖母を思って涙ぐむ日がある。夢に出てきた祖母に何も言えず、起きてしばらくは何もできなかったりもする。

私はそれを残しておきたかった。

(前編・中編)

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