綾倉聡子を訪ねて
※目を通していただく前に、是非とも『豊饒の海 』四部作、中でも『春の雪』をご覧になられたい。
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それはまるで時間と空間を超越して、涅槃に入っていくような境地であった。
その日はまだ七月だと云うのに朝から茹だる様な暑さで、雲間から照りつける陽光が豊穣の大地から湧き出た水分と混じって何とも陰湿な匂いが空気中に充満したかと思えば、その生命の発芽を今か今かと待ち侘びた蝉たちの魂の叫びが木霊する、まるで生死の間に架けられた橋の欄干に立っているようなそんな日であった。
「スグキテクレ。タノム。サクライセン、オビトケノ、クズノヤニイル。コノコト、チチニハ、ゼッタイニシラスナ。マツガエ、キヨアキ」『春の雪』
清顕の翹望を受けて彼の代わりに綾倉聡子に会わんとすべく、私は昼過ぎに帯解(おびどけ)駅に降り立たった。聡子のいる月修寺までは、ここJRまほろば線(旧桜井線)帯解駅から東に三十分ほど登る。
帯解の名は華厳宗の子安山帯解寺に由来し、その寺は帯解地蔵、子安地蔵の名で人々に親しまれ、本尊では鎌倉後期に作られた木造地蔵菩薩半跏像で国の重要文化財となっている。この寺には、平安中期、文徳天皇の皇后藤原明子が懐胎のときにここに祈願して後の清和天皇を安産したとの言い伝えがあり、安産祈願を謳ったのぼり旗が駅から向かう道の至るところで靡いている。その帯解の名の語源は「おびとき」と呼ばれ、乳児期から幼児期付け紐になる過程で付け紐を取り、初めて帯を結ぶ祝いの儀式であるという。
「帯解の町のせまい辻々をすでに俥は抜けて、かなたに霞む山腹の月修寺まで、田畑のあいだをひたすら行く平坦な野道にかかっていた、稲架の残る刈田にも、桑畑の枯れた桑の枝にも、又その間の目ににじむ緑を敷いた冬菜畑にも、沼の明るみを帯びた枯蘆や蒲の穂にも、粉雪は音もなく降っていたが、積るほどでもなかった。」『春の雪』
帯解の町は土曜日の昼だというのに閑散としていて、駅前には郵便局と新聞販売所があるだけで、そもそも人の活気が存在していない「空っぽの町」と表現するのが至適な集落だった。
帯解の町から東へ、青く生い茂った田畑を横目に見ながら、舗装されたなだらかな坂道をゆっくりと登った。最中私はふと、この道中に誰一人として人とすれ違っていないことに気付き、その瞬間ただならぬ幸福を感じた。いや、実際には誰かとすれ違っているのかもしれない。しかしながら、五十年以上前に極めて厳かで美しい文体で描かれた観念上の光景が実際に目の前に立ちはだかって、今こうしてその道を踏みしめていることを確りと認識したことで、夢と現実との境界線が曖昧になり、その瞬間聡子と清顕と本多以外の他者という存在が単なるオブジェと化してしまったのかもしれない。確かにそこに聡子はいる、そう確信し、茹だるような暑さも滴る汗も何か一種の彼女への献身であるかのような思いに駆られた。
高畑山線に沿って歩きを進めて、大きく左へ迂回して間もなく右手に「圓照寺」と名のついたバス停の看板が見えた。そう奈良県は圓照寺こそが『春の雪』で描かれた月修寺のモデルである。圓照寺は臨済宗妙心寺の尼寺であり、大和三門跡の一つに数えられる門跡寺院である。そのバス停の看板を目印に山腹に向かって参道が続いている。
JR奈良駅から圓照寺の麓まで直行のバスが出ているものの、私には歩いてここまで来なければならない絶対的な理由があった。勿論、先述した実際の帯解の集落の空気を肌で感じたいというのも一つだが、真の理由は別にある。
「俥のまま門を入って、玄関先まで三町あまり、そこも俥を乗りつづけてゆけば、今日、聡子は決してあってはくれぬような気がする。…(中略)…一歩退いて、もし俥のまま玄関まで行き、今日も聡子が会ってくれないとするならば、そのとき僕は自分を責めるに違いない。誠が足りなかった。どんなに大儀であっても、俥を下りて歩いて来ていれば、その人知れぬ誠があの人を搏って、会ってくれたかもしれないのに、と。…そうだ。誠が足りなかったという悔いを残すべきではない。命を賭けなくてはあの人に会えないという思いが、あの人を美の絶頂に押し上げるだろう。そのためにこそ僕はここまで来たのだ。」『春の雪』
「山門までの昇りの参道は遠く、車は山門まで入れるのに、老人の歩行は無理だと、運転手は、雲がのこりなく晴れて、日がいよいよ烈しくなった空を見上げて、執拗に本多に勧めたが、本多はしたたかに断って、この門前で待っているようにと命じた。どうしても六十年前の清顕の辛苦を、わが身に味わわねばならぬと思っていたのである。」『天人五衰』
「本多は俄かに暑さと疲労に打ちのめされてうずくまった。…(中略)…実は心中山門まで歩き通せるものかと危ぶんでいる。胃と背中の痛みが同時に来たのである。…(中略)…幾つ目の木陰で休むことができるかと、本多は自分に問い、杖に問うた。…(中略)…歩くうちは忘れていたのだが、休むと共に募るのは、汗と蝉の声だった。杖に額をあてて、額に押しつける杖頭の銀の痛みで、胃や背にひしめく痛みを紛らわした。医者は膵臓に腫瘍があると言った。」『天人五衰』
そう、私も清顕と本多の辛苦を味わわねば聡子に会えないと思った。彼らは死に至る病を患い、清顕は熱に魘され、全身が鈍痛に苛まれながらも山門から歩き、本多も齢八十一で末期の膵臓癌を煩いながらも参道を登った。ついては、若く健康体な私はせめてもの辛苦として、真夏日に帯解駅からの約2kmの道のりを歩かなければならなかった。それは義務であり、私なりの彼らへの敬意でもあった。
「左方に竹藪がはじまったのは、道がやや左へ迂回して間もなくである。竹藪は、それ自体が人間世界の集落のように、しなやかな繊細な若葉のアスパラガスのようなのから、悪意と意地を帯びた強い黒ずんだ緑まで、身を寄せ合て群がって繁っている。」『天人五衰』
恐る恐る参道を登り始めるとすぐに、左手に竹藪が姿を現した。そして続く道が現実に左に緩やかに迂回していることを見た。一瞬目に見えているものが小説の中で忠実に再現されているのか、小説で書かれているものが目の前に忠実に再現されているのかの判断がつかなかった。ただ、永年彼らが追い求めたものが確かにそこに存在し、それに徐々に近づいているという現実が私に歓喜をもたらした。そして同時に、何か越えてはならない領域に今から足を踏み入れにいくような、そんな一種の畏怖の念に駆られた。
「沼があった。沼辺の大きな栗の緑のかげに休んだのであるが、風一つなくて水すましの描く波紋ばかりの青黄いろい沼の一角に、枯れた松が横倒しになって、橋のように懸っているのを見た。その朽木のあたりだけ、かすかに漣がこまやかに光っている。その漣が、映った空の鈍い青を擾している。葉末まで悉く赤く枯れた横倒れの松は、枝が沼底に刺って支えているのか、幹は水に涵っていず、万目の緑のなかに、全身赤錆色に変わりながら、立っていたころの姿をそのままにとどめて横たわっている。疑いようもなく松であり続けて。」『天人五衰』
左手の竹藪に代わり檜林が姿を現してしばらくすると、右手に沼があった。沼を囲む頭の高さほどある生け垣は深い緑の葉が茂っていて、その所々の隙間には蜘蛛の巣が張っていた。背伸びをして水面に横倒れの松を探していると、山腹の方から、新聞の紙面を雑に捲るような乾いた砂利の擦れる音が聞こえたかと思えば、間もなく数台の車が続けて山道を下ってきた。何れも年季の入った国産車で、窓ガラス越しに見る中年の男女は至って普通の洋風な服を着ている。圓照寺は現在参拝者の拝観を許していない。そしてこの山門へと続く道は一本道である。そこから突如として現れた彼らの存在と彼らが残していった無機的な音は、一般人の生活の匂いが溶け込んでいるはずのないこの神聖な空間に、不協和音をもたらしているように思えてならなかった。
沼から少し歩くと道は真っ直ぐに、斜面に沿って生えた背の高い檜が頭上を塞ぎ、空を覆い尽くしていた。小さな木の間から差し込んだ陽光が点々と山道を照らしているかと思えば、遠くに黒門が見えた。清顕も本多も瀕死になりながらも意志の力のみを頼りにこの黒門を、そしてその先の山門を、そして内玄関を目指した。全ては一重に聡子との再会のために。
「黒門をすぎると、山門はすでに眼前にあった。ついに月修寺の山門へ辿り着いたかと思うと、自分は六十年間、ただここを再訪するためにのみ生きて来たのだという想いが募った。」『天人五衰』
ついに辿り着いた。八十一歳の本多が最後にここを訪れてから早数十年、その平唐門はただ今もこの場所に屹立し、その物質と歴史と時間の重みを持って目の前の私に差し迫っていた。輪廻転生の始発点を、そして綾倉聡子の存在を目の前にして、全身の汗は途端に引き、腕には鳥肌が立っていた。ただ汗に濡れたシャツの重みを感じながら、そこに立ち尽くすことしかできなかった。最高気温三十七度であるはずが、暑さも湿気も、長い道のりを歩いてきたはずの足裏の疲れも感じられず、その場に浮遊しているような感覚であって、まるで夢を見ているかのようであった。
「山門をくぐると卵いろの五線の筋塀に沿うて、黄ばんだ小砂利に、四角い敷石が市松つなぎに内玄関まで敷かれている。」『天人五衰』
暫くして山門をくぐると、これまで掌の中にしかなかった世界が眼前に広がっていた。五線の筋塀、市松つなぎの菱形の敷石、人の気配は皆無で、黄ばんだ小砂利はきちんと整えられ、車止めの陸州松はまるで武道の師範のように無駄な肉が削げその体躯は瑞々しいしなりを以てその場に佇んでいた。右方の木叢は長い陰を落とし、その陰の稜線は聡子のいる内玄関へと続いていて、開かれた内玄関は奥に障子を覗かせていた。そう、その境内では、そこにある全てのものが何らかの確かな意味を持って、互いに均衡をを保ちながら存在していた。
確かにそこに聡子はいて、そしていなかった。
見者本多繁邦の一生を介して、松枝清顕に始まり、飯沼勲、月光姫と続いた若く美しい輪廻転生の物語は、安永透という一人の青年によって一挙に破局へと導かれたかのように思えた。しかし今、数十年という時を越えてこの青空の下、奇しくも私と同じ年に東京は四谷に生を受けた易永透という一人の少年によってその炎は再燃した。透は太陽と空と血を以てこの世界を超音速で疾走した。透はようやく、あの時清顕が月修寺から東京へ帰る汽車の寝台で見た夢の続きから覚めて、その後には現実がやってくるはずだった。その熱く輝かしい欲望の灯は、その熱に包まれながら巨大な蛇となって暁の寺の遥か上空で円環を描いて消えた。
一世紀にも渡るリンカーネーションの全てを見届けて、まさに今その始まりの地月修寺の山門の前に立っている。それはまるで時間と空間を超越して、涅槃に入っていくような境地であった。
ここには何もない。辺りはしんとして、夏の日ざかりに鶯が鳴いている。
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