漠然とした人生の意義
私が若輩のころ、やり手とされる社長さんに言われた話。
「なすの君、君はどのくらい稼ぎたいんだ?」
当時若かった私、どうしてお金のことをいきなり聞かれるのかわからぬまま、なかば促されるようにこう答えた。
「月収100万円、年収1200万円すかねぇ」
すると社長は鼻息荒くこう言うのです。
「目標に具体性がない、お金の使い道、目標の時期や場所」
本当に目標を達成したいのならば、具体的に決める必要があるだろうと。若かった私は、それの何が正しいのかわからぬまま曖昧に頷く。
その後も小一時間程、ご高説を披露する社長の話をさもありがたい話のように聞き続けました。(話の内容などどうでもよく、ディナーのお会計を社長が払うだろうという打算のために)
………さて、当時は理解できなかった社長のありがたい話。今ではその意味が腑に落ちてわかるのです。
確かに社長の言う通り、目標を達成するためには、具体的にどうするかという明確なの意思が大切。
それはそう、でも実はそれすらも『井の中の蛙大海を知らず』なのです。
そうと知ってか知らずか社長は、あたかも『お釈迦様の掌の上の孫悟空』。
頭の中の狭い世界で、心の存在を忘れ、目に見えるものだけにとらわれる人。当時の社長に限らず、昨今でもインフルエンサーの人たちの発言をメディアでよく見かけます。あるいは、社会的成功者とされる人たちの関連書籍を、それなりに読んで思う顕著な特徴。
「目立ちたかった」「モテたかった」「お金のためだった」
自分が直接会って対話していないので、たんなる想像になってしまいますが、インフルエンサーとは名ばかりの狭い世界で生きる狢に過ぎないのではないか。
学生時代、学校で色々面倒事を押し付けてきた連中が、そのまま友達がいないまま大人になり、社会でまた同じように、こうあるべきだという狭い料簡を押し付け続けているだけのように思える。
どの学校にもきっといたと思う、お勉強はそれなりにできる優等生、でも陰で弱い子をイジメたりする輩。相手にされないからより一層ムキになり、周りを巻き込んで騒ぎを大きくしようとする輩たち。
正直もうそういうの飽きたよ。
そもそもどうしてこんな話になった?
彼らは必ずこう聞いてくるからです。
「お前はどうしたいんだ?」
だから年収1200万と適当に答えたら、ムキになって、
「だからお前はダメなんだ!」
急に元気になって、自分の頭で考えたノウハウを披露し悦に浸る。そりゃ、お友達もできないよ、周りには彼らをヨイショしていい思いしている輩だけ。人気がなくなったら色々暴露され裏切られポイされる。
どんなに成功しているように見えても、彼らもまた何もわからぬままに生きる人間なのです。
漠然としていることの何が問題なのか。
自分の人生を信頼し、ただ単に漠然と流れに身を委ね、身近な愛する人々と共に慎ましく暮らしているだけ。
本当に豊かな人生を生きる人たちは、周りなんかに惑わされないというよりも、忙しすぎてそういう輩の存在すら知らないでしょう。その暮らしに土足で上がり込み、胡坐をかいて、夢を語るとか、片腹痛い。
もういいから、自分の建てた小さな王国にお帰りください、そちらの世界で、無明同士ずっと競争と争いの中を生きればいい。そして二度とみんなのところに来ないで。
この世界の目に見えているものなんて極わずかにすぎない。そもそも具体性を持たせるためには、そのための時間を割く必要がある。それこそ時間と労力の無駄。
具体性などという無意味なものを持つ暇があるなら、心の求めだけに応じて行動し、あとはもう結果を委ねるだけでいい。
インフルエンサーと持て囃される人々には、そんなこともわからないようなのです。彼らは羨望に値するような人たちではないのです。
近づかない、見ない、聞かない、これに限ります。ポスティングチラシは見ない、販促メールは見ない、営業の電話には出ない。それらと同じ。
彼らは反面教師を演じてくれているだけ、だから自分が彼らを無視できたとき、その役割を終え舞台から消える定め。私が若かりし頃、やり手とされていた社長がその後、どうなったかもわからなくなったように。
色々周りのことを気にかけて、自分がどちら側とか心配しなくても大丈夫。身近に愛する人たちがいるなら、共に笑顔あふれる毎日を過ごせばいい。
もう二度と物質的な豊かさに憑りつかれた人々に意識を合わせなくていい。
結局信じられるのは自分だけ、だから好きに生きればいい。
いつも本当にありがとう。 これからも書くね。