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夏至に壮年期の自己表現を考える

最近の若いアーティストは自分の姿を晒さない、時代の変化というよりも作品をまず評価してほしいという思いの表れだろう。

誰が作った作品であるかというのは、本来は付帯的なものであって、作品自体を味わってほしいと願うのは自然だ。

ゆえに「○○さんらしい作品」と言われるのが一番困るだろう。

物を作る人なら誰でもわかるように、作品とは基本的に自分の中のその刹那を切り取って具現化したものがそのほとんどであるため、いつものらしい作品と言われてしまうと困るのである。

ファンが喜ぶ、求めに応じた作品を商業的に作ることもあるだろうが、基本的にその瞬間の自分を表現したものが作品だからだ。

明日は明日の自分が作品を作る、そのイメージがわかない人に物を作るということを説明するのはむつかしい。ある意味、分かる人用の作品にアピールポイントを求められても答えようがない。

バイブスを感じてほしいとか、そのくらいしか返す言葉はないだろう。

メディアは人のふんどしで仕事をしている以上、自分を持てずクリエイターの言葉を引き出すことは至難なのだ。

私じゃなく、表現を見て!

一方で、あなた誰? 的な人ってメディアで見かけますよね。

彼らは自らをどんどん露出します。

誰が言ってた、というのが重要だった時代の名残。

偶像崇拝的な、羨望のはけ口。時代は進み、次第に言っていることや、やっていることが評価されはじめる。徐々に表現の自由が広がりつつある。

これまでは、まず何かにならなければならないなら、一部の人たちを除いて敷居が高かった。裕福な境遇、質の良い教育環境、良好な人間関係。

生まれながらに2000億円を自由にできる人たちと、芸術活動をする傍ら年収300万円の人たち。その活動のクオリティの差は埋まることはなく、開き続ける。

個々の好みでしょ?
そういう割に数字を持ち出してくる人たち。言ってることとやってることが支離滅裂。

偏見は持ちたくない、誰もがそう思う、しかし偏見は自我が確かになるにつれ、より硬く強くなっていく。いつの間にかスマホにインストールされたアプリのように。

まずは自分を知ってもらわなきゃという強迫観念にも似た思い込みが蔓延していた時代もいよいよ終わろうとしている。

肉体年齢50歳説を唱えてみる

人間50年。

私たちの肉体は50歳で寿命を迎えている、そんな話。

私は現在40半ばです。

ここ数年で急速に衰える自身の体を思うにつけ、肉体は齢50を境に死を迎え入れようとすると強く感じる。

もちろんこれには個人差があることではあるのですが、とはいえ人間は遅かれ早かれ肉体的な衰えを受け入れる時が来ます。50歳以降、人生の半分はより精神に寄り添う形で生きることになる。

私はこのところ執筆した後にどっと疲れが出て、座っていることも辛くなって横になって仮眠することが多くなりました。

そうしてまた起きだしたまどろみの中で好きな飲み物を準備し、お気に入りの音楽を聴いていると、だんだんと言葉たちが起きだしてくるのでまた書くというルーティン。体力のみならず、精神の減退により制作意欲も衰えつつあるのかもしれません。

最近よく思い耽るのは、壮年期の自己表現について。壮年期になるにつれ、職場での責任ある立場、両親の介護、自身の体力の衰えや持病。様々な要因が折り重なり、若い頃のように精力的に活動できなくなる。

私は子宝に恵まれることはありませんでしたが、育児に追われるご両親であれば猶のこと、多忙な日々であったでしょう。

現代の壮年期世代は、若い頃から満足いく表現ができた人もいれば、多くは思い切り思ったような活動をできなかったのではないでしょうか。
仮に長く活動を続けてきたアーティストにも幾多の時代の変革の荒波が押し寄せました。

かつては、どれほどのキャリアがあるとか経験年数が最低条件なところがあったように思う。

それもいつしか、何年も頑張ってすごい、から何年もやっていたのに?
そのように変化しているように思う。

人間は所詮100年で死ぬ、どんなに頑張っても生きられるのは、たったの100年でその間のどれだけを何かに没頭できるだろう。もちろん寝食を忘れ、それだけを何十年も続けるなんてことはあり得ない。

安定がなんだかイケテナイことのように思われはじめてる。そして表現の自由は、いつも若者に軍配が上がる。壮年は老獪に勝てる戦しかしなくなる。

これは自分からの逃げなのだろうか。さりとて、新しいことに次々チャレンジすることがというのも、結局は個々によるだろう。

夏至の日を迎えるにあたり、改めて自己表現について考えさせられた。

いつも本当にありがとう。 これからも書くね。