我が人生、仮初めの仮想現実
なんだか現実に満足できない、だからかついついゲームやアニメや漫画や映画やネットのライブ配信などのメタ的空間に逃避しがち。メタ空間とは、この現実に内包された情報の渦であり、あくまでも仮初めのモノにすぎない。
そんなことを思うにつけ、私が大好きな小説やクロード・モネの絵画や博多歌舞伎座の舞台演目やクリスマスの夜に妻とキャナルホールで観たジャズコンサートはどうであっただろうか?
私は毎朝コーヒーを飲む際、地元の陶芸家お手製の唐津焼のカップで飲む。ただ飲み物を飲むなら、百均のカップで十分だとは考えないからだ。自分の気分に素直になって、そうしたいからそうするのだ。
愛する妻にプロポーズした際も、ただそうしたいから心に従った。
この現実にしたって、さらに外の世界からすれば、やはり仮初めにすぎないのだろう。だがしかし、たとえそうであったとしても、この現実に肉体や意識が顕在している以上、この場所こそが私のリアル。
愛する妻との16年間も、仕事に明け暮れた日々も、振り返れば「あぁそうか」と、自分の意識するこの現実とはそういうものであったかと思えるのだ。
つまりこの現実とは、自分の選択と行動の如何によって、全部後付けで辻褄合わせが起こるものであると確信に至るのだ。であればこそ、自分の心に従い、素直に行動した結果に執着しなくていい。
どうせその時には何もわからないのだ。感情や感覚を嗜めるようになれば、ようやく人生が楽しめるようになる。
そもそも楽しむ必要すらないと悟るのだ。
朝起きて、ただ自分として存在し、呼吸や鼓動があるだけでもう十分だとわかるから。
そうかと思えば、自分だと信じ疑っていないこの意識にしても瞬間瞬間の刹那を切り取れば、まるで別人のように千差万別。自分で自分はこうあるべきだと思い込み、その自分を懸命にこの現実に繋ぎ止めるかのように。
もし自分を腑抜けた抜け殻だと思い、人生を仮初のものだと認識しているなら、それは思い込みである。これまでの人生を振り返り、生きた実感を感じていなくとも、自分は確かに存在し、足跡を残し続けている。
確かに映画の主人公のような華やかさや煌びやかさはなかったかもしれないが、これは紛れもないことである。
当たり前の事実として、取るに足らないと思っていた人生も、自分が存在していなければありえなかったことなのだ。
すべては、自分を中心として相対的。時間や空間といったものは、自分との関係性において相対する。さらにいえば、自分が動いていた場合、自分の質量は増えるため、より相対的に周りは大きく変化を迫られることになる。
その過程で多くの人が、『より良い』とか、『素晴らしい』とかを目指す。
仮に『良くなった』『素晴らしくなった』として、先の展望は考えていない、というよりも、そうなったら後は継続すればいいと思っている。がしかし、ここに大きな落とし穴があることに気付ける人は少ない。
この世界はどこまでいってもバランスの世界、一時的に良くなったところで、揺り戻しが起こり、元の木阿弥となる定め。それならば、良かれと思って素晴らしい世界を構築せずとも、無理なく自然に生きればいいとなる。
良いは良いに決まっているという幻想、素晴らしい世界を目指さないといけないと思い込んでいる。雨が嫌いだからといって、天候を操り、晴ればかりを作り出すことによって何が起こるかは考えるまでもないことだ。
人間がエゴによって何かをすればするほど、この世界の調和は崩れ続ける。
人々の歪んだ信念によって、歪な世界が顕在化し続けている。
いま改めて調和とは何かを理解し、バランスについて考えるよいタイミングではないだろうか。
善と悪とのぶつかり合いなど、はじめから必要ないことに気づく時が来た。
中道を基本に、一人一人が足るを知り、中今を生きられれば、瞬く間に新しい世界がやってくる、そんな気がするのだ。
いつも本当にありがとう。 これからも書くね。