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雑多な雑感――NPOの戯言⑳

《「田舎暮らし」の悲喜こもごも④》
 わたしの住む、後期高齢者率90%以上(推定)の田舎に子どもの声が響くことはない(子ザルは除く)。山中ということもあるが山を下りても変わらない。海岸線に沿って比較的大きな国道が通っており、それなりに街並みがあってもよさそうな雰囲気はなきにしもあらず。ローソンがあるではないか。  
 だが、近場の保育園・幼稚園はつとに閉鎖され雑草が蔓延り、少し離れた小学校がかろうじて存続しているが生徒数4名に教職員7名らしい。6年生2名なのでどうなることやら。高齢化・少子化・過疎化を見事に体現している。なので、子どもに限らず若者を見つけると「おっ、いるぞ」と目を向けている自分がいる。とにかく珍しいのである。
 国道沿いのガソリンスタンドも閉鎖され、昨年末には週2で開いていた銀行の支所も閉鎖。最寄りの郵便局にも閉鎖の噂が。ちなみに、もとより郵便局は暇なはずだが、なぜかわたしが訪れると滞る。わたしが並ぶスーパーのレジと同様、高い確率でトラブルが発生する。貧乏神に加えて疫病神も引き寄せているようだ。同情を切に欲する。

 ところで、寂れた田舎にいると見えてくることもある。我が家を少々離れて見渡せば海を臨む景観が素晴らしい。むろん都市の景観にも見るべきものが尽きるということはない。大阪出身のわたしには京都、神戸、大津などを訪ねた際のさまざまな景色が想起される。学生時代を過ごした金沢や名古屋をはじめ、その近辺にも見どころは満載。高所からの遠望という点では神戸の北野や岐阜の金華山、長野でのアルプス山系は思い出深い。ど田舎の特性は人の少なさか。観光地ではないがゆえの頼りなさも魅力かもしれない。
 いずれにしても、気づいたのは「同じような風景」であれ「同じ」ではないという実に当たり前の事実。どの風景とも一期一会。ど田舎にいても同じ一瞬などあり得ないのである。鴨長明の心境の欠片――あくまでも一片である――を知覚した気にもなる。
 取り分けて「そこそこ」というのが、ど田舎の優れたところ。ただし、ど田舎ゆえの就活は続いている。にもかかわらず今日も酔っぱらっている。そこそこに。


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