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死ぬときは死ぬ 「小さな悟り」から

今回は、刺激の強いタイトルですが、命を大切にという思いで書いています。ですが、無理に読まないようにしてください。あくまでも、個人の経験や思いを書いています。


「死ぬる時節には死ぬがよく候」
 良寛さんの言葉です。「災難に遭う時節には災難に遭うがよく候」ともいっていて、まさに生きている限り、避けようのない事象はそのまま受け入れていくしかない、ということを表わしています。そうはいっても「死ぬのは怖い」。その気持ちはわかりますが、いくらジタバタしたところで、死ぬ時節を先延ばしにすることは不可能です。
 仏教では「定命」といって、人間はみんな定まった命をいただいてこの世に生まれてきたと考えられています。

枡野俊明「小さな悟り」p191 三笠書房

潔さを維持するのは難しい

その潔さを常に持っていられない
未練はないと思う時もあれば
別れたくない未練たっぷりな時もある
やり切った人生の充足感がある時もあれば
まだまだやりたいことがある時もある
寿命もあれば事故もある
なかなか割り切れない場合もある
そんなに潔く日々を過ごせていないと思う


「定命」なのだろうか

8月は終戦記念の話題が出るので考える時期でもあると思う
今月学ぶ機会があって記事にも書いたけれど
不条理と思うことはたくさんある

学生の頃に地元にある特攻平和会館のことは記憶に残っている
数えるほどしか言っていないけれど深く記憶に刻まれる
特に10代の若者が特攻隊として飛び立つ前に書いた手紙は苦しい
生きることについて考えさせられた

SWとして自死や他害の辛く悲しい出来事に関わることも経験もしてきた
ただ言葉を失うだけではない
人として大切な何かを壊される
仕事でもそうなのだから・・苦しさの表現は難しい


見送る経験

記憶にある初めては幼稚園生の頃、友達が事故だった
多分、僕はその現場を目撃したと思うけど記憶がない
友達のお母さんが泣いて「月に行った」と優しく話してくれた

叔父は50代だった
優しい叔父はヘビースモーカーだった
「最後にタバコ吸いたいのをダメと吸わせなかった」ことを叔母は後悔した
火葬場でボタンを押せずに泣き崩れた気持ちが痛かった

社会人になって患者さんを見送ることが多かった
生前に家族を恨んでいる言葉を聞く事はなかった
「家族に迷惑をかけた」「面会にはきて欲しかった」
その思いを親族にどうにかして伝えたいと思う経験が多かった

幼稚園生の頃、近所の畳屋の老夫婦が好きだった
お互い引っ越した後も何度も会いに行った
最後に会った時「もう思い残すことはなか」と言われことが心に残った
しばらくして旅立った知らせが届いた

祖父母は息を引きとる時間に虫の知らせがあった
祖父の時は鍵が折れ、祖母の時は湯呑みが割れた
覚悟はできていたから仕事しながら冷静に受け止めた

たくさんいるいとこの一人が借金をするようになり
親族間でも困っている話があった
しばらく誰とも連絡が取れなくなっていた
白骨化した状態で発見された

親しくしていた人が自ら命を絶ってしまった
灯油をかぶり火をつけたところで僕の父が発見した
必死に地面に転がし火を消したが手遅れだった
父の手は火傷で酷かった

恩師の余命が僅かと便りがあってから何度も帰省して会った
もう最後だろうと仲間を集めて会いに行くことができた
思い出の恩師の奥さんのうどんを一緒に食べれて幸せだった
毎年恩師の奥さんを訪ねると、不思議に恩師と3人で話している感覚になる

叔父や叔母が旅立っていく
体の病気、認知症、自宅で発見されたり
コロナ禍で見送れないことも増えた
母方の一番上の叔母は、9人の弟妹やその子供たちにも口煩かった
毎年帰省のたびに「自分が嫌われ役を全うする」と笑っていた

見送る経験を重ねる度に
寂しさや悲しさや辛さもあれば、感謝や想い出もある
受け取ったものがみんなあって今がある

どう死ぬかは「どう生きるか」

「終活」「エンディングノート」などが拡がり始めている
生きてきた経験の中で、教育も情報も価値観も違うのだから
世代や地域で捉え方も違いがあって当然
身近に命の尊さを感じる経験をしても
人は愚かさも持ち合わせているからこそ
命の尊さや命のつながりに感謝して
より良く生きたい

そうしたら「死ぬる時節には死ぬがよく候」
そんな心をもてるのだろうか・・


最後まで読んでくださりありがとうございます

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