9年経過 〜風化していく想いが寂しい〜

3.11

今日で東日本大震災から9年の月日が経ちます。
あの日から9年。僕も被災した1人として言えることは、今年の3.11はなんか寂しい感じ。こんな感覚は初めてです。コロナの影響もあると思います。でも、それだけではないような。きっと大震災が風化している。僕を含めメディアも。この感覚は僕だけですかね?こんな風に思っている自分も情けないなって思ってnoteを書きたくなりました。
 僕は9年前に宮城県石巻市内で被災しました。元々、宮城県には縁もゆかりもなかったが、石巻市の大学に進学したことで第二の故郷となりました。当時、春休みで殆どの学生は地元に帰省していたと思います。僕は大学在学中は野球部に所属しており、春休みは帰省せず、練習をしていました。その日は午前中で練習が終わり、少し休憩してから、ウェイトトレーニングを後輩とする予定だったので車で休んでいました。その時です。東日本大震災が発生しました。大きな揺れと地鳴り。車が大きく横に揺れ、硬直状態。人間あの状況だとなにもできないです。これはただ事ではないと思い急いで、アパートに戻り、毛布や着替え、残っていたお菓子など車に詰め込み、急いで大学構内に避難しました。野球部員も数名いたのでホッとしたことを覚えています。この時点でおそらく午後3時前後。このあたりからですね。最悪の津波が押し寄せてきたのは。僕の大学は海からは離れており、山側だったので津波の被害はほぼなかったです。停電になり、携帯電話も途中から繋がらず、正直津波が来るって事は知らなかった人もいたのかもしれません。無線放送で津波が来るって放送なってましたが、車は海の方面に走っていく。きっと家があったり、家族がいたり。当然ですよね。大津波が来るなんて予想もしてなかったし、家に戻る事は人間の心理なのかもしれません。僕の車にはナビが設置なっていなかったので、友達の車の中でニュースを見てました。津波の映像がリアルタイムで流れており、友達と絶句。これが、すぐそこまで来ていると考えると恐ろしいものです。とりあえずその日は大学の自販機でカップラーメンを買い、食べてから車中泊しました。大学の駐車場だったので、結構な人が避難してきていました。次の日、起きてから友達とアパートに行く事になり、歩いて向かいました。結論から言うと、アパートには行けませんでした。街が水の中って表現が正しいかわかりませんが、先には行けない状況でした。呆然となりました。
大学に戻り、そこから約一週間避難所生活を送りました。徐々に支援物資が送られてきたり、電話が繋がり始めたり。親とも、連絡が取れ、一週間後に迎えに来てくれました。親もさぞかし心配したことだと思います。当時の状況を思い出しながら少し状況を書かせていただきました。正直、僕よりも辛い経験をしてきた人は沢山いると思います。家族を亡くしたり、住んでいた所が原発の影響で帰れなかったり。いまだに苦しんでいる人は沢山います。そして、今日この日を迎えました。やはり3.11を迎えると毎年当時のことを昨日のことのように思い出します。でも、明らかに風化している。そう感じます。僕の地元で震災のことを思っている人は何割いるんだろう。徐々に減ってきたよなって感じでしまいます。だからこそ僕は伝えたい。全然関係なかった人たちにも。あの日の事を忘れないで欲しい。僕は被災地被災者のために何か役に立ちたい。微力でも何かできる事を見つけていきたいと思います。今日は追悼式も自粛されていますが、これからの復興を願い続けています。

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