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知命からの学び直し

今年の3月18日で齢50を数えた。

「他人が出来る事は自分にも出来る」
だから努力を怠らない。

「自分が出来る事は他人にも出来る」
だから研鑽を怠らない。

これまでの経験で見つけた
「学び直し」の理由と原動力だ。
…と、考えていた。
 
他人のやっている事を羨むのではなく、
自分にも出来るはずと思うことが
学びの始まりである。

どうやれば出来るのだろう?
あの人はどうやっているのだろう?と
考え実行することで学ぶことが出来る。

とは言え、人には向き不向きがあるから
努力だけでは出来ない事も当然あるが、
たとえ自分に出来なくても現実に出来る人が
存在しているのだから
「出来るためのメカニズム」
考えることが学びになる。
 
自分に出来ることは
「自分にも出来る事なのだから
他人が出来て当然」と考えることで
更なる研鑽を積む原動力になり、
現在の自分を懐疑的に捉え、客観的に
見直すことで自身の行動を振り返り、
学び直すことが出来る。

つまり“学び直し”とは自身の慢心や
傲慢を諌める行為でもある。
 
ある程度の自惚れは前に進むための原動力でも
あるが、過ぎた自惚れは破滅への第一歩である。
それも「上手くいったのは運が良かったから」
「運は実力ではない」と考えることで
諌める事ができる。
 
これを消極的と捉えるか、
翻って前向きと捉えるか。
 
「失敗を恐れるな」とよく言われる。
確かに「失敗は成功のもと」と言われるだけ
あって失敗から学ぶことは多い。
失敗の経験は自身の成長にもなる。

しかし、失敗の原因を想定できずに
同じ失敗を重ねていては学びも成長もない。

学びのない失敗はただの愚考であり愚行である。


きちんと失敗を恐れ、
同じ失敗をしないために分析し、
再考することが学び直しになり成長になる。
 
…この考え方が全く間違っているとは
思わないが、学び直しの理由が
「出来る」or「出来ない」
ということに偏ってしまっていることに
齢を重ねたことで気付いた。

 
勉学でも運動でも旅行でもグルメでも
美術でも陶芸でも、どれだけ歳を重ねても
学び始めることに「遅い」という事はない。

明日、死ぬと分かっていても、
新しいことを始めることに意味がない
なんて事もない。

一つ学べば、そこには感動があり
次への好奇心が生まれる。

そこから自身を振り返ることが出来れば、
学び直すチャンスが生まれ、
成長することが出来る。

 
肉体的成長期をとうの昔に終え、
日々滅び行く己の肉体の前では
“停滞”は“後退”でしかないが、
好奇心を持ち学ぶことで精神は
いつまでも成長できる。

肉体の老いは精神の老いと同義ではないのだ。

そして精神の老いは実年齢に比例しない。
「学び直し」をテーマに書こうと
決めたのは良いが、実はこの原稿を
書き上げるまでに 何度も何度も切り口を
変えながら書き直し、何度も読み直し
何度も書き加え何度も修正した。 

結果、期せずして自分を見つめ直し、
学び直すことになった。

 「学び直し」とは自身の明日のために
日々するものだと今は考える。

みなさんのお気持ちは毛玉と俺の健全な育成のために使われます。