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自作曲『流れる』と、戦争というものについて

自作曲の歌詞について、あまり多くのことを語らないようにしてます。
聴き手がどう感じるか、どう解釈するか、という自由を大切にしたいからです。
ただ、『流れる』に関しては、終戦記念日を翌日に控えた今日、
敢えて綴ることにしました。

「流れる」 作詞・作曲:ヨシオカ ミノリ 編曲:ミノリトリオ
[ミノリトリオ] ヨシオカ ミノリ(piano,vocal)、じゃいあん(bass)、垣内雄太(drums)
※著作権は放棄していません。再配布・再販売などをかたくお断りいたします。

「人が、どれだけ小さく儚い存在か。」
テーマを集約すると、これに尽きます。

戦争というものを、「悪いもの」という一言で片づけるのは、難しいことです。
もちろん、戦争は、なくなってほしい。
戦争を肯定する気持ちは、微塵もありません。
ただ、民族問題となると、それまでの重ねてきた歴史は、自分が知識の一環として理解しているよりも、ずっと根深く、私が「分かってる」という風に語るのは、ある意味おこがましい気がするのです。

そのことを踏まえた上で、今日は、戦争というものを、人を対象として、(つまり、生き物や環境といった事柄に関しては、今回に限っては外して)真っ向から否定します。

戦争というものは、無差別に、何もかも奪ってゆきます。
ささやかな日常を、家族を、人生を、命を、心を。
文化を、街を。
森を、水を、花を。

戦争を引き起こすのは、政治家。
市民を煽動するするのも、政治家。
怨恨の連鎖を市民に植え付けるのも、政治家。

難しいのは、戦争を仕掛けられた側。
自国の領土が奪われ、占領されるということは、
自国の人々の命、人権、生活、文化、環境を相手に奪われるということ。
だから、それを喰いとめるためには応戦せざるを得ない。
しかし、応戦するということは、市民を戦わせることになる。
戦わせた結果、自国の市民はもちろん、相手国の市民の全てを奪うことにつながってしまう。
かといって、相手国の言いなりになって、国を、市民を、相手国の奴隷同然にする訳にはゆかない。
戦争を仕掛けた国の市民だって、そもそも戦うこと、日常生活や家族、命、心を殺されることを願ってはいないはず。

そういった事情で、
今、この瞬間も、戦っている国、人たちがいる。
今、この瞬間も、平穏な日常生活、家族、人生、心を壊されているひとたちが、たくさんいる。

否応なく人を殺し、殺されることを強要され、
全てを奪われるのは
ささやかながらも逞しく、日常を生き抜いている市民。

もう、やめて。

そう訴えたいけれど、
戦争を終わらせる力が、自分には、ない。
戦争をこの世からなくす力が、自分には、ない。
こんなにも小さな存在に過ぎないけれど、
考えること、知ろうとすることはできる。
目を背けてはいけない。
忘れてはいけない。

人は、等しく、小さな欠片に過ぎない。
そんな小さな存在が、短い時の流れのなかで、
もがきながらも生き抜いてゆくことが、
どれだけ儚く、愛おしいか。

この大切さを、本当に、本当に分かったなら、
人は、「戦争を引き起こそう」と思わなくなるかもしれない。

それを切に願い、この曲に託しました。











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