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死ぬまで生きる日記

その本に出会ったときの衝撃を何と表現したらいいのか。私はその日、仕事終わりで、とても疲れていた。出張先が、いつも行く大きな本屋さんの近くだったので、その本屋に寄ってから帰ろうと午前中から画策していた。そう考えてにんまりとするくらいには、午前中は調子が良かったのだ。けれども、午後にはあまりにも疲れて気持ちが沈んでしまっていた。私の場合、よくあることだ。だから、もう今日はそのまま帰ろうかとも考えた。

それでも本屋に行ったのは、この沈んだ気持ちを何とかしたかったからなんだと思う。足は無意識に本屋の店内に向かっていた。あの落ち着いた匂いを嗅ぐと、たとえメンタル状態がこの上なく悪くとも、少し気持ちが上向くから不思議だ。


そう、昔から気持ちが沈んでどうしようもなくなった時、私はたいてい本屋に行く。そこには何か答えがあるのだと信じて。

しんどい気持ちを宥めながら書棚を回る。その日は幸運にも読みたい本がいくつか見つかったので嬉しかった。
しかし、読みたい本を何冊か手に取った時、ふと(私はこの本たちをこの状態で本当に読みきれるだろうか)と不安がよぎった。そうやって安易に手に取った結果、家で読まれないまま積まれていく本たちがたくさんいたのだ。そしてそういう本たちは、時に無言の圧迫感で私を苦しめた。今感じているこのときめきを、苦しみに変えてしまうかもしれない。希望と絶望は相転移の関係性なのだ。
ここ数年、自分の気持ちを些細に観察するようになってから、こういう自分の心の微妙な機微がわかるようになってきた。というわけで、私は持っていた数冊を全て元の棚に戻した。寂しかった。そしてどうして私はこうなんだろうとまた自分を責める気持ちになった。



顔をあげるとそこは、エッセイが集められた棚だった。視界の右隅に、この本の表紙が目に入った。



「死ぬまで生きる日記」

まずタイトルに惹かれた。と同時に、「ああ、またこういうタイトルのほうに惹かれてしまった」という罪悪感も湧いてきた。
私は決して死にたいわけではない。けれどもぼんやりと漠然と「消えたい」という思いがまとわりつく時があった。数年前から、その気配は色濃く私を包むようになっていた。仕事も順調で、パートナーも家族もいる。傍目には何一つ不幸な要素はなく、自分自身でもそう思っていた。私は幸せだ。けれども、同時に消えたい。二つの要素は同時に存在しうるものなのだと初めて知った。けれども、それがなぜなのか、どこからくる気持ちなのか全くわからなかった。

色んな本を読んだ。けれども多くの場合、その類の話は私にとって重すぎた。読んでは違和感を感じ、また次の本に手を伸ばす。いや、そうじゃない。そうじゃないんだ。私の生い立ちはそんなにハードじゃない。日常生活も問題なく送ることができている。自殺企図をしたことも、その願望もない。
しかし、状況がヘビーでないからといって辛くないわけではない。自分のしんどさにぴたりと寄り添ってくれるような情報がどこにもなかったことは、じわじわと私を苦しめた。


だから、この本を見つけた時も、一瞬躊躇したのだ。束の間の逡巡の後、そうっと手に取り、ページをめくってみた。


そこに書かれていたのは、私の求めていたことだった。


本書は作家の土門蘭さんが、自身の「死にたいと思う気持ち」に対してカウンセリングでアプローチする、その記録である。
蘭さんは長年「死にたい」という気持ちに悩まされていたという。それは突然やってくる。場所や時間、タイミングもわからない。しばらくすれば去っていく衝動的な感情だと経験でわかっているからその場はなんとかやり過ごすけれど、生活に支障をきたしている。心療内科に行くと「うつです」「薬を飲めば治ります」と言われるが、どうもしっくりとこない。そこでカウンセリングというアプローチを思いつく。


私もちょうど1年前、同じような考えを辿り、初めてのカウンセリングを受けた。費用が1回8000円と高額で、結局2回しか行っていないが。土門さんの2年にわたるカウンセラーさんとの交流を読み進めるうちに、どんどんと自分のことのように感じて、時に涙が出てきてしまった。この人の苦しみは私の苦しみだ。そして私は、こんな本にずっと出会いたかったのだ。



消えたいという思いがまとわりついて離れない。自分の存在がどうしても嫌になって、このままきれいさっぱりと、自分の存在ごと消してしまえればいいのにと思ってしまう。愛する夫や家族がいるのにそう思ってしまうことに、私は罪悪感を感じていた。「消えたい」なんて悩みは、近しい家族には言えない。蘭さんも同じように考えていた。何もない土日に、家の中でじっとしていると、何か重苦しいもので窒息しそうになってしまう。何をするにも、やりたいという気持ちが失せてしまう。その苦しみを、自分1人で引き受けねばならないということ。これから先もずっとそうなのかと思うと、絶望に押しつぶされそうになる。


カウンセリングを受ける中で、蘭さんは少しずつ螺旋を上るように進んでいく。それを読む私も、同じように進んでいく。少しずつでも進むことが大切なのだと気づく。そして、それが1人で完結するものではなく、他者が介在するものであるということも。私にもやはり他者が必要だったのだ。それも、身近な人ではない、赤の他人である必要があった。やっぱりカウンセリングは自分に必要なんだなという結論に至ったのだ。よかった。


お守りのような本に出会えたことは、私にとって幸運だったと思う。これから私は、私のための考える場を設けていこう。私が生き延びるためのお守りを、たくさん見つけていこう。

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