大伴部博麻のお話

日本書紀の中に登場する大伴部博麻(おおともべのはかま)という人物について、今日はご紹介してみたいと思います。
自分を犠牲にして日本を守ろうとした立派な人物なのですが、世間的には存在もあまり知られていないのではないでしょうか?


白村江の戦いで唐軍の捕虜となる


筑後国(ちくごのくに)の上陽咩郡(かみつやめぐん)出身の大伴部博麻は、斉明天皇(皇極天皇)7年(661年)、白村江の戦い(日本・百済の連合軍と、唐・新羅連合軍との戦争)に参加します。
その際、唐軍によって捕らえられ、捕虜として長安へ送られることになりました。

たどり着いた長安には、遣唐使として渡海した後に捕虜となっていた、土師富杼(はじのほど)氷老(ひのおゆ)筑紫薩夜麻(つくしのさちやま)弓削元宝(ゆげのげんほう/がんほう)の子らがいました。

唐が日本に攻めてくる!?


天智天皇3年(670年)、彼らは唐が日本侵略を企てているという知らせを耳にします。
早く日本へ伝えなければと思っていましたが、衣服も食料もないような状態なので、日本に達することはできないと憂いていました。
そんな中、博麻(はかま)は土師富杼(はじのほど)たちに相談して、以下のような内容を伝えました。

「私の身を奴隷として売って、帰国資金としてください。」

こうして富杼(ほど)たちは、博麻(はかま)の計画のままに帰国。
天智天皇10年(671年)に4人は対馬に到着し、唐の計画を太宰府に伝えました。

約30年後に帰国


博麻は異国の地に留まることを余儀なくされ、唐軍に捕らえられてから実に30年近くが経過。
持統天皇4年(690年)に顔見知りの人(新羅使)に連れられて、ようやく日本への帰国を果たします。

持統天皇は、天武天皇13年12月(684年)に土師甥 (はじのおい)を迎えた際の例に準じて新羅使らを酒や食事でもてなすことを河内王らに命じました。

持統天皇より勅語を賜る


持統天皇はその愛国心を讃えて博麻を務大肆(むだいし[従七位下(じゅしちいげ)に相当])に任じ、絹を四匹(粗い糸で織った絹10反)、綿を十屯(12キロ)、布を三十端(長さにして225メートル)、稲を千束(玄米で7.5トン)、水田を四町与えた。また、子孫三代に渡って水田を相続を許可する事と税の免除を約束し、以下の勅語を送りました。

「朕嘉厥尊朝愛国売己顕忠」

(汝は、独り、他界(ヒトクニ=外国)に長く滞在し、現在まで30年。朕はその朝廷を尊び、国を愛し、我が身を売って、忠誠心を表したことを喜んでいる。)

この勅語は「愛国」という単語の語源となったもので、天皇から一般個人に向けられた最初で最後の勅語だということです。

参考HP


http://www.snk.or.jp/cda/tanbou/joyo/takayama/1-hakama.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E9%83%A8%E5%8D%9A%E9%BA%BB
https://nihonsinwa.com/page/2431.html
https://rekishi-memo.net/asukajidai/ootomobehakama.html
https://www.city.yame.fukuoka.jp/kanko/8/5/1457320334324.html

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