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今、私にできること?

ちょっと怖い話をしてもいいですか?

それは昨年の12月のこと、夜の八時過ぎ。
私は近所の本屋さんにいました。
ある関連の本を探して、本棚を上から順に見ていました。

私の周りには誰もいません。
私は探すのに必死で、本のタイトルを見ることに没頭していました。

そんな時です。
突然、左耳に大きな音がしました。鼓膜が破れそうな音でした。
私は驚いて左側を振り返りました。
するとそこには人の気配があって、
でも、その人の顔を見る間もなく、その気配はさっと通り過ぎました。
その気配を追って右側に目をやると、何事もなく歩き去って行く男性の後ろ姿がありました。

私はただ呆然と立ち尽くしていました。
そして、先ほどの強烈な音がその男性の怒鳴り声であったことに気付きました。

怖くなって、その場を去りました。

あんなにも爆音であったにも関わらず、私はその男性が何と言ったか、はっきりとわかりません。
でも、おそらくこの言葉だったと思うのです。


「どき!!!」


なぜ、その男性は怒鳴ったのか

「どき」は「退いてください」のもう少し強い命令口調の言葉だと思います。
ようするに、私が邪魔なので、そう怒鳴って立ち去った。ただそれだけのことなのかもしれません。

ただ、ここで少し疑問がわきます。
本当に私は邪魔だったのか、ということです。

<私の周囲、立っていた位置について>
私の周りには誰もいませんでした。
私の立っていた通路は、私の横を他に三人は通ることができるだけのスペースがありました。もちろん私は、本棚のすぐそこの端に立っていました。

<「どき」と言って、その男性がとった行動>
私は「どき」と怒鳴られて、一歩も動きませんでした。
それにも関わらず、その男性はさっと通り過ぎました。本当に邪魔だったなら、私がそこをのかなければ、その男性の迷惑になったはずです。

そこで、私の勝手な推測が浮かびます。

その男性は物理的には私が邪魔ではなかった。
ただ、誰かを怒鳴りたかった。

のではないかと。

何かにイライラしている時に、
何の問題もなく反撃もしてこない、全くお互い知らず、そして自分より弱者と思える相手。
そういう都合のいい相手に怒鳴ることで、危害を加えることで、発散したのではないかと。

ただ、知らない人から言葉を浴びせられただけ。
それもそんな暴言ではありません。
気にしすぎだろうし、それがどうかした?という、その程度のことだと自分でも思うのです。
でも、その男性の意図を想像すると、その悪意を思うと、怖くて仕方ありません。

そういう歪みがエスカレートして、動物やその人にとって弱者と思える人に対しての暴力的な行動になっていくのではないだろうか。
今の不安定な空気がそんな風に考えさせてしまいます。

ただの杞憂であればいい。
でも、ただ怒鳴られた、そのことが社会の何か恐ろしい一幕の足音のように思えるのです。


扉の穴

その本屋での出来事を、私はある友達に話す機会がありました。
社会がどこか、前以上に不安定になっているような気がする、とも話しました。

その友達は私の話を聞くと、こう言いました。

「確かに、そうかもしれんなあ。そういえば、最近ドアに穴が空いとる補修依頼が増えたな。前は年に一回あるかないかだったのに。イライラしとる人が増えとるんかな」

その友達は、家の扉や収納などの内装材を作る会社で、お客様の窓口業務をしていました。

「え、ドアに穴が空いとるって、どういう意味?」

「明らかに人がつけたあとやから......お施主さんが殴ったかなんかだろうなあ、費用も施主持ちやし」

とてもびっくりしました。
もちろん、意図的に扉を傷つけたという証拠やデータがあるわけではありません。
でも、扉はわりと頑丈なので、日常生活を送っていくうえで穴が空くということは、考えにくいと思うのです。


罪悪感があった

本屋での出来事や、扉の穴のことを考えていると、ふと落ちてくる言葉がありました。

それは、どこで見たかも、誰の話だったかも、正確な言葉さえ覚えていない。
それにも関わらず、呪いのように私に刻まれていました。

僕は今も飲食店を毎日利用してる。それは回り回って報いを受けると思うから

昨年から、コロナの影響を全く受けなかった人はいないと思います。
私も生活や価値観が否応なしに変わりました。

まず、外出をする際は必ずマスクを付けるようになりました。
リアルでは、普段の生活のコミュニティー内の最小限の人にしか会わなくなりました。
以前は2、3ヶ月に一度外食をしていましたが、全く外食をしなくなりました。
旅行にも行かなくなりました。
家でゆっくりする時間が増えました。

河原に椅子を並べて、お茶をする楽しみ。
散歩をしながらお喋りをする楽しみ。
作ったり学んだり、挑戦する面白さを思い出す喜び。
本をゆっくり読む豊かな時間。
そうした生活だからこそ、みつけた喜びも楽しみも確かにありました。

そんな中、コロナのせいでたまたま運悪く切実な状況に陥っている人の、大変な現状が情報として入ってきます。
それは私の世界で起こっている出来事であり、自分事としてとらえていたつもりでした。

でも気付けば、自分や自分の周りの人のみの、この小さな小さな世界だけを守っていました。守られていました。
そして、そんな小さな世界から俯瞰するように、その情報に触れていました。

苦しい思いをしている人がいるのを知っていて。

罪悪感がありました。


今、私にできること

私がコロナに感染しないことは、私だけでなく、私の周り、そして微力ではあるけれど医療への負担も減らすことだと思っていました。
そして、制限のある小さな世界で、小さな幸せを大切にしてきました。

それが、「今、私にできること」だと疑いませんでした。

でもほんまにそれでいいの?
それだけでいいの?

自分の世界が少しの恐怖に侵されて、初めて気付きました。
私は自分事としてとらえていなかったと。
何もせず、自分の小さな世界だけを守っていたと。

私に何ができるだろう?
具体的に個人でもできることとは何だろう?
よかれと思ってしたことが、逆に迷惑になることもあるのだろうか?

たくさんのはてなが浮かびます。

近所のホテルや飲食店を利用したり、少額でも寄付をするようになったり……とりあえず思いつくことはしてみました。
でも、やらないよりはましかもしれないけど、少し違う気もするのです。
周囲の何人かにも聞いてみました。でも、特に回答は得られませんでした。

他の方々はどうしているのだろう?
自分の周囲だけでなく、遠い、コンタクトをとったことがないような方々にも聞いてみたくなりました。

皆さんはどうしていらっしゃいますか!?




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