ルッキズムを学んだ結果、全てが「美」になった
たぶん、僕は人生の大部分をルッキズムと無縁で生きてきた。
無縁というのは、ルッキズムに捉われないということではなく、そもそもルッキズムを認識できなかったからだ。
もちろん、自分が好きになる人はいたし、その好きになる要素の一つとして外見はあった。しかし、その外見の人が好きなのではなく、好きな人がその外見だったのだ。
「好きなタイプ」をたずねられると困った。
色で言えば、青系の色が好きか、黄色系の色が好きかと言われたときに、紫も水色も藍色も全く違った色で、青系とひとくくりにすることに強引さを感じていたし、レモンイエローと橙色をひとくくりにすることも無理だと思っていた。色をどこで切り分けるかが難しいように、外見をどこかで線引きして、分けるという意識がなかった。
つまり、僕には、外見をカテゴライズすることが困難なのだ。
困ったのが、「美人」という言葉だ。みんなが言っている「美人」に共通項を見つけられない。どれも全く違いすぎて、カテゴライズできない。
今でもよくわからないので、とりあえず自称他称で「美人」とされている人のことは、「美人」だと認識するようにしている。
一方で、「ブサイク」とか「美人ではない」という人が、なぜ「美人」ではないのかがわからない。
さらには、数年経てば、「ブサイク」とされていた人が「美人」と評されるようになることも見てきたので、適当なもんだなと思っていた。
最初に居住地を変えたときに、「イケメン」にもさまざまあることを知った。
もともと「イケメン」という言葉が指すものに関心がなさすぎて、わからなかったのだが、なんとなく「この人はイケメンと判断されるのだろうな」という基準はできていた。
しかし、ところ変われば「イケメン」も変わるようで、自分の中では「これはイケメンとは言われないのではないか」という人が「イケメン」と評されることに何度も出くわすことになった。
たぶん、「美人」や「イケメン」という言葉は、個人的な感性に基づくというよりも、文化・社会的な背景に影響されるのだろう。
個人的な感性に留まるのであれば、「好き」でいいわけである。それに加えて、その文化・社会において、共通した約束事として「美人」「イケメン」を設定しておく必要があるのだろう。
それを裏付けたのが、ゲイ・コミュニティーの「かわいい」問題だ。
ゲイ・コミュニティーでは、しばしば外見の良い人のことを「かわいい」と評する。
僕は当初、この「かわいい」が全く理解できなかった。少なくとも、自分の個人的な感性としては、その外見を「かわいい」と評することはできなかった。
現代のゲイ・カルチャーにおいて、短い髪型で、整えた髭を生やし、目は小さめで、鼻は高くなく、輪郭は丸みを帯びているような外見の人のことを、「イカニモ」と呼ぶことがある。
「イカニモ」という呼称にあるように、「イカニモ(ゲイらしい見た目)」とされる見た目だが、もちろんセクシャリティと見た目は必ずしも一致しないので、少なくとも今の時代において、「ゲイらしい」とされる見た目だと解釈した方がいいだろう。
この「イカニモ」という見た目はもちろん、他の「かわいい」と評される見た目が、自分にとってはカルチャーショックであり、それらにどのような共通項があるのか、どうすればグルーピングできるのか、理解することが難しかった。
だが、不思議なもので、だんだんと「かわいい」という概念の範疇がわかってきた。だんだんと、「この人は『かわいい』に分類されるんだろうな」というのが、わかってきた。
同じようなことを、「イケメン」や「美人」にも応用できるようになってきた。
だが、体感としては、「イケメン」や「美人」の多様性は、ゲイ・カルチャーの「かわいい」よりもずっと多様で、同時にうつろいやすいようにも思う。
高校生と接していると、美醜の感覚がだいぶ自分とは違うことを実感する。時代や世代、地域や文化によって「イケメン」「美人」「かわいい」が変わっていく中で、とてもそれに対応しきれない自分がいる。
ルッキズムというのは、その容姿をグルーピングできないと、成り立たない。「みんな違ってみんないい」の状態では、ルッキズムは発動しない。「美」と「醜」を分ける境界を設けられない、「美」を選び抜く要素を設定できないからだ。
「目が相対的に大きく見える」とか、「髭を生やしている」とか、「唇がふっくらとしている」といった要素があれば「美」だとされれば、それでいいのかもしれないが、ことはそう簡単ではない。人の容姿の実態は複雑である。
そういった中で、僕はルッキズムを「学んで」きた。ルッキズムが、社交ツールであり、コミュニケーションをとる上で必要になるからだ。
だが、本質的には未だによくわかっていないことが多く、少なくとも個人的な感性としてはグルーピングは難しい。「こっちは美で、こっちは醜」の根拠がよくわからない。少なくとも直感的にはよくわからない。
ちなみに、自分自身の容姿についても、あまり気にしていない。確かに、油分が多いとか、もうちょっといい感じに髭が生えたらいいなとか、ホクロがあと5個くらい少なくても良かったんじゃとか、青年期にできたものもらいの跡がなくなったらとか思ったりはする。
しかし、これまで不自由を感じたことはないし、どこも痛くないし、肌も白くてきれいだ。約40年も付き合ってきた顔だし、父親や弟とそっくりの顔が、気に入っている。これは美醜とか、そんなカテゴライズできるものではない。だって、自分の顔は自分だけのものだし、自分の顔はこれだけだからだ。
ただ、こう書いてきて思うのは、一方で、ルッキズムに悩み、自分の容姿に悩む人のことにも思いを馳せたいと思う。
これは、本人の感覚的なものと、環境的なものと、いろんなものが重なって起きていることなのだろう。
僕のようにカテゴライズが苦手だという感覚を持っていたら、環境的な要因にさらされてこずに生きてこられたら、ルッキズムとは無縁だったかもしれない。
そしてまた、そのルッキズムでコミュニティーをつくるということもあるから、さぞかし大変なこともあるのだろうと思う。
確かに、ディズニーランドではミッキーマウスのカチューシャをつけたほうが馴染むし、楽しめる。
結婚式では色合いの華やかなスーツやドレスを着た方がいい。
きっと、コミュニティーによっては、どんな容姿であるかがとても大切で、それは服装だけではなく、顔にも言えることなのだろう。
それを楽しめているのであればいいが、そこに苦痛や虚しさを感じたのであれば、離れた方がよいのだろう。ただ、ディズニーランドを出るように簡単にはいかないだろうが。
そういった「ルッキズム」を「学んで」きた結果、僕はどうなったか。
僕にとっては、全てが「美」であることが強化された。
なぜなら、自分の感覚としての「美」だけではなく、文化やコミュニティーの中での「美」に触れる中で、「ぜーんぶ、美」ということ、百歩譲っても「ぜーんぶ、美になりうる」という認識になったからだ。
自分には理解できなかった「美」を知ることで、結果的に全てが「美」になったのだ。
当然、それは自分にも適用されるわけで、一層僕は、自分の「美」を信じることができている。
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