勉強を楽しくする方法34〜一冊の本〜

これも理系のある友人に言われたこと。
「社会の先生はまるでみてきたかのように、会ってきたかのように場所や人物について語る」

そのつぶやきの半分は畏敬の念、半分は皮肉が入っているのではないだろうか。

そう言われて私も考えた。
社会科を教えているとは歴史上の、今存在しない人物について話すことになる。
行ったこともない場所について、その場所の名前しか知らなければ話の間が持たない。
どうしても、その場所に関するうんちくや雑学がないと、人の興味を惹きつけられないのである。

そこで、たとえば関ヶ原の戦いについて考えてみよう。
自分がもし、関ヶ原の戦いに出陣して生き延びたならば、おそらく周囲でたくさんの血が流れたかもしれない。

もしかしたら、島津軍のように決死の退却を敢行したかもしれないし、全く動かずの軍勢の中にあったかもしれない。
実際、どの立場として体験するかで、述べることができる感想は異なるだろう。
そして、体験からしか述べられない教訓や情報は確かに存在している。

では、関ヶ原の戦いについて一冊の本を読んでみる。
そこには地形や時系列に関する情報、全体の軍の布陣や、勝敗、その後の展開などを知ることができる。

リアリティは実体験に劣るものの、体系化され、精査された情報を1冊の本で読むことは実体験とは異なる膨大な情報を手にすることとなる。

ただし、真実性は実体験に分配が上がるし、話を聞く立場としてはもちろん真実を知りたいと思うはずである。

ただし、体験していたら全ての経緯や関係者のことを知ることができるとは限らない。
そして、歴史というのはその事件や人物が終わったのちに、その意義が理解されることも多い。

そこに流れている時代観をつかむことは、歴史を学ぶ者にとって重要な成果であり、醍醐味でもあるのである。

ということで、どちらがいいというよりは、伝えている情報の種類が違うのだから、どちらとも必要ということになるのだけれども、実際に体験すれば全てを知ったということにはならない、というのが私の結論として落ち着いた。

何よりも、場所にはたどり着けても、過去の人物とは会うことができない以上、どこまで残されたものを使ってアプローチできるかが勝負だという、歴史の限界性に向き合うことになるのかもしれない。

そういう意味では、タイムマシンが開発されたら、歴史革命なるものが起こり、歴史学が提供する知見は、人類必須の教養として完成するかもしれない。

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