⑵編集と制作、そして出版という文化生産と経済生産

山本哲士氏へのインタビュー2:「心的現象論・本論」に関して

ーー山本さんは、編集が機能していない、物制作が機能しているだけだと言われているのではないでしょうか。原稿や既出の雑誌論考、またインタビューなどが、ただ字面を正確に移行させる「制作」だけで、編集はすまないんだと言っていると思います。それは、著者のアクションや意志や思い、情動まで含めてなされている創造的表現活動を理解できていないという指摘だと言えます。ただ書かれたものだけを見て、それが事実だと、赤字を入れたものを発見してそれを優位にたて、実は著者の思想性を排除しているものにさえなってしまう、それが「本論」概念の削除として現れているだけでない、本質論を長編評論だ、なんて出鱈目を平然という事態に現れている、ということですね。
山本 出版とは編集ワークが非常に重要です。映画でもそうですね。編集という作業、ワークの行為次元と、編集者という人格とは区別しなければいけません。その関係は、編集ワークを編集者がなし切れているかいないかですが、編集者の個的人格に編集作業は還元されてはならないのです。編集ワークの難しさ、高度さはそこで問われます。要されている編集次元に達しない編集者は、失格です。
私は、処女作(1979年)を書いてから数年後には、もう企画・編集に関与して編集作業をなしてきました。1983年「プラグを抜く」シリーズ(新評論)が最初ですが、その後、1986年から学術文化誌を編集し(これは現在も継続、35年以上になる)、雑誌「actes」(日本ディタースクール出版部)も出しましたし、編集・監修ものをいくつも出しています。自分の著書は50冊ぐらいありますが、編集してきたものは200冊以上になります。そこで学んだことは大きい。著者としてもただ原稿を渡して、出版社に放り出すということをしていません。デザインやレイアウトにもこだわり、彼らの協力をえて、出版社ができない閾を切り開いてきました。それを、新評論、その後、日本エディタースクール出版部および新曜社でなしてきましたが、私の企画を容認してくれた出版社です。大手とは、全然噛み合いませんでした。大手には従えと周囲からも言われましたが、そんな賢さは自分にはない。ともかく、イリイチもブルデューも日本では全然真正面から扱われていなかったし、フーコーなどは文化主義によって汚染されていましたから、その社会科学的な局面を強調してきた。そこにおいて私は閉じていませんが、低次元なものには容赦しなかった。吉本さんは、学者としては珍しく開いていると、他者へ言ってくれていました。例えばあるフランス人の学者が吉本宅を訪れ、山本に会ってみろと言われたと私のところへきましたが、吉本思想をフランスへ紹介したいんだというのです。ところが、フーコーもブルデューも、また私が接しているフランスの高度な論者たちの何も読んでいない。そんな次元で、吉本思想を了解などできるか、という厳しさです。これは閉じていることではありませんし、外国人にへいこらする必要もないという開かれ方です。ゴロつきフランス人学者が日本でもうろついていますが、どこでも大学人一般の低次元さは同じです。この対応には、編集というファクターが作用しています。つまり、学術・思想を研究し、かつそれを世に産出するという次元です。
このようなことをあえて申したのは、私は出版社編集者たちより編集ワークをわかっているということです。
編集editingというのは、プロデューシング、アドミニストレーション、マネジメント、そしてクリエーションという五つの総体を、なすことなんです。字を正確に印刷へ回すという物制作だけのことではない。
日本は、商業的な「売れもの」を出版することにおいては非常に長けています。印刷技術もかなり高度です。しかし、文化生産としての文化市場づくりとしては、あまりにお粗末です。書店では、人文・社会科学のコーナーがどんどん狭くなっています。世界的にもそうですが、日本は特に。そして、大学人は、文化生産に関わる経済マター、文化市場にまったく無頓着、不能です。ただの賃労働者だからです。自分の本の印税計算はできるかもしれませんが、自分の本にいくらのコストがかかっているかを知っている人はいないでしょ。大学紀要で原稿を渡したなら、翌日にはゲラが出てくると思い込んでいる人がたくさんいる。また本を書いたなら、お金儲けができていると思い込んでいる人も多い。私の本が売れないのはおかしいと出版社に文句を言う大学人までいる。他方、出版されると「おめでとうございます」なんてやっている。惨憺たる状態になってます。知的生産の場所が形成されていないんですよ。だから、岩波が威張ってる。吉本さんも岩波の「思想」に原稿を書いたこともありましたが、その後いっさい関わってないですね。私は絶対に書きませんが、教え子が大学就職に関わる件があって、『思想』に頼んで掲載してもらったことがあります。それは彼の業績を人事で頭ごなしに否定する大学人がいたので、あんた、「思想」にかけないだろう、彼は書いてるんだぞと、その大学人の愚行に対抗するためでした。こんな次元の話でしかない。こういう権威性が私は、ほんとに大嫌いですので、制度規範・制度権威を立てていることに対して、他者を守り攻撃するときに使いますが、何もかも「自分でする」という道を切り開いて、研究環境を整えていったのです。それを支えてくださる方たちがいたからですが、一人で物事ができると思っている傲慢さはただの無知です。「編集」なるものがわかっていたなら、一人で勝手には絶対にやらないですよ。ちゃんと意見を言える人たちを立てます。
心的現象論の編集作業は、高橋輝雄さんを中心に任せて、何人もの方達が関与されています。彼は自分でも本を書いていますし、しっかりした経験もある編集者です。プロ中のプロですよ。ただの物制作ではありません。しかし、彼一人にはせずに、数人に絡んでいただきました。高橋さん自身があらわれますから結構頑固なので。私は、総体制を配置して、この編集・制作に取り組みました。資金と人を配置するプロデューシングです。そこで印刷所は、非常に大事な配置になります。ただ原稿を渡してゲラ校正では済まないことです。
吉本さんは、途中で、お前は編集者なのか研究者なのか、と言われたことがありましたが、両方です、と答えたものです。正確には、先の五つのマターを指揮する立場です、その責任を負った(つまり経済負債を自分が負うということ)。その総体が「出版生産」になります。
すでに、企業との協働研究体制を私は研究生産として1億円スケールで組み立てていましたから、できたことです。イリイチによる研究所運営を見ていましたので、その模倣をしたものです。また、パリの社会科学高等研究院から教えてもらったことでもありますが、これはスケールが遥かに大きいゆえ、基本的なファクターを踏まえました。そのアドバイスは二点です、マネジメントは学者・研究者が自分たちですること、第二は大学人の嫉妬をかうな、何をされるかわからんぞ、というこの二点だけはしっかり注意し守れ、と。日本で、目立つことをしなかったのはこの助言からで、日本ではなくジュネーブに学術拠点をおいたのです。スイスのプライベート・バンクがサポートに入りました。2000年からです、国際学術財団をジュネーブに置きました。国際セミナーを、パリ、ジュネーブ、ロンドン、ニューヨーク、トロントなどで実行しています。日本へ、彼らを招請もしています。
何をいいたいのかというと、思想・学術書の生産は、そしてその編集は、研究生産の総体に関わるんだということです。出版社依存ではダメなんですよ。国際学術財団では、日本ではほとんど知られてなかった、一流の高度な学者・研究者たちとの協働です。
そこへ、吉本思想と「心的現象論・本論」の編集生産を位置付けてなされた作業です。
私が、注意したのは、学術生産を経済従属させてはならないということでした。経済企業はサポートすることであって、資金提供したからそこへ従え、などには絶対に妥協しないことです。成果は、世界寄与する研究生産です。1企業利益への成果ではありません。
ーーそうした研究生産体制がなかったなら、「心的現象論・本論」「愛蔵版:心的現象論」の出版はあり得なかったということですか?
山本 はい。絶対的に。だから10年間も刊行され得なかったのですよ。これを、ほんとにわかってないのが日本の出版です。全集版だって、全集総体があって、出版社全体があって、「心的現象論」(=本論)の刊行が可能になっていることですが、さらに外在条件が機動していなければ製作されません。出版社としてルーチン化されているためわかられなくなっていますが、経営者は知っています、編集者たちはほとんど分かってない。
なのにただ、単行本が商業的に商品として作られるだけだとされてしまいますから、学術の真制なものが生産できなくなる。直接性では、500万円ぐらいの経費で単行本化できましたが、それが完成体となるまでには、直接で2000万円ぐらいはかかっています。そこまでマネジメントせねば出来上がらない。「本論」「愛蔵版」に収められた私のインタビューは、活字にすればわずかな量ですが、それが実現されて行くには大変なコストがかかっています。そこを、まったくわかっていない、日本の編者です。だから、平気で盗用する。こちらへの許可申請などされずに、全集版は刊行されています。出版倫理全体が揺らいでいるのも事実ですが、晶文社の社長は、それを知って真っ青になって驚いていましたが(ここについてはまた詳しく述べます)、編者が無断で勝手にやったのでしょうね。それは、全集版が送られてきたとき、すぐにわかりました。
ーー全集がひどいのは、既刊本の「本論」の構成をそのまま使っていながら、「心的現象論・本論」とせずに、その「本論」の名を意図的に削除しています。これは外部から見ていても歴然としています。しかも、そこに「編集部」と記されていますが、それは山本さんや高橋さんのことなのに、自分であるかのようにそのまま記述されている。注釈もない。ひどい代物です。本文収録をやり直すのはいいとしても、しかし、それを自分の編集物だとするなら、山本さんたちのインタビューを外して、本文だけにして「本論」の名を外せばいい。なのに、<構成>は、「本論」「愛蔵版」のそのままの踏襲です。これは、編集者として実に呆れます。許可もとっていないのですね。考えられない。なんで、そんなことをするのか、放置し難いことです。山本抹殺をしているだけで、吉本さん本人を無視している。著者を無視する全集とは一体何ごとだ、です。同業の編集者として恥ずかしい。
ーーいや、ビジネス的に見ても、許容し難い仕方ですよこれは。山本さんが、2月の調停会合以来静かになって、うまくいった、黙らせられたと高を括る、経済人として実にあちこちにある現象です。問題解決ではなく、騒ぎがなくなれば、それで安心という低劣な企業がよくやる手口だね。事実を見なすのではなく、ただ騒ぎだとしか認知していない。企業倫理がないことの現れです。謝罪したなら、過失を認めてしまう、だからしない。過ちや間違いを認めたなら、経済損失が来る、負荷がくると経済マターで考えて、人として考えなくなっている。出版界ではこんなことが許されているんですかね。
ーー医療ミスをして、それは患者が悪いんだというような医者ですね。この編者の言い草は。編者がミスしたんですよ、どう見たってこれは。なのに、自分は悪くないとヒステリックになっている。
ーー編集者崩れだけではない、人格崩れですね、この編者は。モラル的に失格ですな。
山本 あまり、熱くならないでください。全集にはあまり触れたくないという私ですが、どうもそうならないようですね。言えることは、インタビュー(あとがき、あとがきにかえて)を外して、本論名称を外したなら、私は何も抗議などしなかったでしょう。そうか新たに編集構成したのだな、と。それでも呆れはしますが、「試行」オリジナル原稿以後のものを他書から取り込んでるという基本がなってないからです、「よくやるな、いい気なものだ」で済ませていたと思います。先程も言っていた評論だとするなら、あとがきもまえがきも入れる必要はないでしょう。「評論」という概念の意味もわかってないですけどね。
しかし、当時、「本論」部を単行本化するに当たって、単行本としての編集構成をしなければいけない。そこで、「まえがき」と「あとがき」を、「序説」にならってしてほしいと、吉本さんへ依頼しました。吉本さんも、そうしたいと、語られています。「単行本への編集生産」です。その経緯は、YOUTUBEでもブログでも示しておきましたが、これけっこう大変な作業でした。語りで、吉本さんは繰り返しがとても多くなっていました。それを、吉本さんの思想性を落とさずに整理していかねばならない。高橋さんがそこをうまく整理され、そこに私が前後関係や既存の発言をもって再構成し、本人へ見てもらう。簡単な作業ではないです。真の編集者なら、そこはすぐ読み取れることです。しかも、著作権とは別に、この「編集権、出版権」は、私どもの出版社(EHESC 出版局:私が経営している出版社)にあり、「あとがきにかえて」「付録資料」は私の手になる著作権だってあります。
田舎大学教師の私の痕跡をを削除し消せれば、権威が上がると思っているんではないですか。
ーーでも、著者存在に対して、編集者ならこういう態度は常識的にとらないですよ。山本さんは、S社の著者でもあったんでしょ。S社社員なら、絶対にこういう態度は取らないと思いますよ。外注依頼されている「無責任な」独断姿勢だと言えますが、それにしても間違ったのは自分ではないですか、S社に対しても損害を与えているわけですよ。それを棚に上げて、正しい指摘をすることを、間違いだと攻撃するのは、プーチンの仕方とおんなじですよ。大統領という身分のことでなく、自己中心の身勝手な行動形態の典型としてです。そもそも、インタビュー内容の水準も理解していないし、その意味もわかってない、掲載許可の必要さえ認識していないなど、編集する編者として完全になってない。全集は「1970〜1997年」とされていますが、このインタビューは吉本発言として2007年です。年代指定も間違っているではありませんか。はみ出している。めちゃくちゃですよ。一人が独善的にしているから、こういうことになるのがはっきりしてますね。
山本 それは編集方針というか編集概念が、年代設定になっている無理からもたらされているからです。資料的編纂の仕方になっているゆえ、「言語にとって美とは何か」もそうですが、年代は付随的なことなのに、テーマ性に年代が配置されています。監修能力がないことの現れです。年数など思考過程として付帯的に示せばいいことで、単行本へまとめたことが大事な思想表出です。本質論は情況論ではないんですから。ここを、全集は全体として薄めていますね。通時化が客観化だと思っているからです。幼稚な大卒知性です。どうしても全集へ触れざるを得なくなりますね。仕方ないですね。大事な全集なんだからしっかりしろよ、と言ってることですから、しっかりするためのクリティカルなことを述べざるをえないですね。
この三つの本質論は、普遍的な物ですから、歴史年代へ還元される時代的な内容ではない。これ、思想表出の決定的ファクターです。言うまでもない、史的唯物論への対決です。他方で現象論への批判超克。歴史的な仕方は、別次元から構成され、現在的なものは情況論として、これも本質/歴史/現在情況の三つからなっています。その本質次元での独立的な、まとまった書です。つまり、あとがき、まえがきのある一つの書であって、ご本人が2008年に完結させたものです。手を入れられたかったのでしょうが、体力的に無理だったのだと言えます。もう、これでいいとおっしゃってました。それが、2022年の新書化で構成した完成体です。それも、S社へちゃんと渡してありますが、この新書にはいっさい触れていない。「はしがき」を自分編集でなしたと主張したいからでしょう。しかしその生原稿、持ってもいないでしょう。しかし、そんなことは私どものパンフで、2008年にちゃんと説明してありますから、独自の編集ではない、「本論」の踏襲です。出版している者なら、印刷工程が進行していて、そこに間に合わない事態が起きたとき、どうすべきかの大変さはわかることです。それを、不手際というなら、著者本人のことでしょ、編集サイドは必死になって穴が開かないよう努めるサポートです。編集と印刷との関係が、わかっていないとしか言いようはないですね。誰をせめても意味ないことです。互いの不備を承認しあい、解決策を確認してそこに委ねるしかないです。そうしたわけです、吉本さんも私たちも。まずは、2008年版の「本論」と愛蔵版として、パンフも含めてです。編集側が勝手にやったことではない。
ともかく、事情を聞くべきことをしていないのが、全集編集そのものの怠慢ですし、身勝手の傲慢さであり、明らかに、こちらの発行所の無視、排斥です。だから、承諾さえ取らずにできたんではないでしょうか。他の既存刊行出版社に対してどうなっているか知りませんが・・・単行本解体していますから推して知るべしです。使わなければいいのに、使ってしまった。その承諾など、どうでもいいという考えでしょう。こちらに聞いていれば、何らの問題も起きなかったことですのに。つまり、編集ワークができていない実例です。編集ができていない分、人格として傲慢になっている現れです。
皆さんは、この編集<者>を主体的に非難されていますが、もっと根源的な問題があるんですよ。つまり、人格の行動をそうさせてしまうものです。人身攻撃はすべきではない、人格表象一般としてやむなく述べるにとどめたいですね。
ーーどういうことですか? だって、この編者が一人独断で成した過ちでしょ。構成は、2008年版を踏襲したままで、なんら新たな構成しているわけではないのに、盗用し、「本論」概念を抹殺し、さらにはこの編者が、山本さんは見ても読んでもいないようですが、めちゃくちゃな山本攻撃をしていますよ。
山本 そうなんですか? たいそう偉い方なんでしょうね。私にはどうでもいいことです。事実を認めない人は、何を言っても事実を認めないから、裁判制度での対立保証の場があるんであって、有罪か無罪かではなく、争点は、互いが認めないから起きることです。この全集編集の仕方は、知ってて「本論」概念を意図的に外しています。それはシニフィエとして、まがいもない事実ですが、そうさせているシニフィアンは、どこにも書かれませんね。しかし、創造ではなく、シニフィエ記述されていないだけで、はっきり表出しているシニフィアンがあります。先程、「人格崩れだ」と裁定されていましたが、その根拠はどこですか?
ーーこの編者が執拗に支離滅裂に書いていることそれ自体です、異様な執着ですよ。
山本 どうして執着しているんですか?
ーー自分のミス、過ちを認めないからです、原因を自分ではないことに投げています。偽書だと指摘している山本は、偽人だ、なんても言ってます。
山本 そうですか。なら、私は、今ここにいますね。偽りの存在ですか?
ーーいや、現にいます。
山本 そうでしょ。では、私は、今そういうことに対して何を考え感じていますか?
ーーいや、わからないから、聞いています。
山本 そう、わからないから、偽人だとシニフィエしたんでしょ。それを偽書という表象とアナロジー化すれば、自分の真正性を正当化できる、偽書なる実在を真正だと主張できる、と思っているからでしょ。つまり、言っていることは、その人は、私をわからないんだとシニフィアンしていることです。いや分かろうともしていない、というシニフィアンです。しかも、その偽人たる私が著者にインタビューし、テープ起こしし、整理し、制作した「あとがきにかえて」や「付録資料」を無断で使っている、勝手に使っておいて、私を罵倒、誹謗中傷する編集者って一体何なんでしょう。こんな編集者、世の中にいるんですね。しかも私の事実指摘を誹謗中傷だと言い張る人って、何をしているんでしょう?あるものを無いといい無いものをあると言う人が編集している全集ってなんでしょうね?
ーー人格破綻者ですね。自分が何しているか、わからないんでしょう。山本さんが制作しなければ、「あとがきにかえて」も「付録資料」も「まえがき」さえ、存在出現していないことを、この編集者は何にもわかっていない。編集者として失格です。
山本 人格否定は、編集ワークとはなんのかかわりもないことが、わからなくなっているシニフィアンは何かです。それが吉本思想を歪めている。私には、この編者は人格として存在していませんから、どうでもいいですが、著者を無視否定している出版・編集を許すわけにはいかないと言うだけです。私への態度に、その素性が出ているんでは無いですか。
S社の社長は、最初私とその人を対談させようとした。わたしはいいですよと承諾しましたが、内面では何様なんだいという感じが正直あった。しかし「偉い」立派なその人から対話は拒否されたんではないでしょうか、その後何も言わなくなった。意図的なことをしたのを、当人は知っているからです。「山本と俺をどっちをとるんだ」とヒステリックに社長は詰め寄られたそうです。なんでしょ、これ。もう、最初から、交通を遮断して、自分がなしたことが正当化されることをしているだけで、著者吉本もそっちのけになっている<編集>行動だということでしょ。私の制作物を使っていて、私を否定していることと、同質ですね。編集ワークとしてはっきり出ていますね。つまり、「本論」を編集しているのではなく、自分の意図を編集しているということです。
論点を整理しますね。いくつものことが重なって、主体化=従体化されてしまっていますから対象画定しておきます。問題の次元が少なくとも三つあります。
第一は、既刊本「本論」と全集版との関係。つまりは、「対立」が全集によって作り出されたこと。こちらが作り出したんではない、すでに2008年にあった書です。全集は2022年12月。
第二は、既刊本「本論」、「愛蔵版」の編集過程がある、そこへの理解のされ方。著者本人が認めた書は何か、ということ。本人は、この2008年版しか認めていません、ただ「まえがき」は再版の際に載せると互いに確認しあって、2022年1月に約束は果たされた。
第三は、私共が刊行もしていない2007年の偽書が、実在していることとその存在条件が満たされているかどうか、ということ。プロが見れば、偽りなどすぐわかります。この偽書。偽りとは、phoniness/forgery/fakeness/bogosityの要素が構成されています。
第四が、全集を編集したその編集行使者、つまり「編者」という個人の問題。人格に関わりますが、そうした独善を許してしまう、編集体制がちゃんとなされているかということです。
そこに、「出来事」と、何が真実か、という真理生産のことが絡んでおり、そうした自己性selfhoodの自己認識〜自己知self-knowledgeの問題が貫かれています。
person-centeredの状態が屈折して構成されてます。ここで、面白い錯誤現象が起きているのですが、これらは私のことではないのに、全てが私=山本のことだ、とされている<事幻化>の問題があります。物象化ではなく、<事幻化>物事の出来事が幻想想像される転倒現象です。
なされていることは、実に単純な、「誤認の正当化」だけが問題を起こしています。この「誤認méconnaissance」は、pre-dispositionされていますから、当事者は円環します。プーチン現象だ、と、皆さんが言われたことの論法が機能します。第一のこととして後で説明します。第三の、とうに処理されたことが、蒸し返され、ほじくり返された問題を、第四の人格と編集体制が作り出したのです。当事者は、すんなりと自分編集が正当化できると踏んでいたんでしょうが、著者否定行動ですから、その問題を作ってしまったことへの自己知がない分、感情が血走るということになっていませんか?! 全集を作って仕舞えば勝ちだ、とやっている編集と解題の仕方ですね。どうして、そうしたのかそれは知りませんが、なされたことにはシニフィアンははっきりと描きだされています。
ーー最後のところはわかるんですが、そうなっていることの<事幻化>というのは、難解ですね。また、山本さんは、実在するからといって存在条件が満たされていることにはならないと、強調されています。絵画でも偽物は実在する、資料文書も、だから存在条件のチェック・確証は必要だと、もっともなことを言われています。そこと、どう絡むのでしょう。
山本 第二の点の、著者がどの書を認定しているかですが、歴然としていますね。2008年の「心的現象論・本論」と「愛蔵版」です。この二書だけです。どこかで、そうではないと著者は言っているんですか? また第三の書は、実在しますが、そこから物質的に著者は印税を受け取っているんですか?受け取っていないですよ、最初から認めていないものです。こんな書はダメだと、著者と私が、高橋さんたちも、含め否定確定したことです。さらに、その印刷所の上司たちも認めたことゆえ、継続されず廃刊されたんではないですか。第二の刊行書は、2022年まで販売され、返品在庫がいくつかありますが、新装版として完成形に作られ今なお販売されていますし、印税もちゃんと支払われています。証書も記録もちゃんとあります。なのに、それを非実定化しようとする人たちが、第三のわずか数十部をもって、俺たちが正しいと主張して、山本は間違っていると非難されているだけのことです。きっかけを作ってしまった私にも責任がありますから、実際刊行物を贈呈しますと呼びかけ、数人の方が申し出られ対応しています。
ーー執拗ですよね。間違いを認めない。たった二文字「本論」です。なんで抹消したんですか、なんでですかね。だから人格破綻者だと、私どもは言ってしまうのですが・・・実に不快な自分勝手な感情的な言述です。
山本 考えていく上での基本をまず説明しましょう。この事態は、とてもエモーショナルになされてますから。また、私の、最初のS社社長へのメールは激しいものでしたから、感情的なものと判断されたと思います、あえてそうしたのですが。私は、S社の著者でもあるゆえ、まだそこは親密性を残してのことですが、異様なことがなされたその問題を浮上させるためにです。その私信を彼は、吉本家、編者に見せましたから、見せると言ってきましたし、弁護士団とどうするか相談すると言ってきました。しかしずいぶん時間がたっても何も言ってこないので、そちらの弁護団と会いましょうと提案したのですが、弁護団は出てこない。私信を他者に見せたことは私のマターではないので、どうこう言いませんが、私信と公開文書とははっきり仕分けて、出版社へ通告しているのは、ご存知の通りです。しかし、私信は私は当人以外に見せるべきではないと自己規制していますので誰にも見せませんよ、私信なんですから。裁判になったら堂々開示しますが。S社社長は知己ですし、会議室の使用や印刷所の紹介など色々お世話になった方ですので、私信を最初は出したのです。このことは、relationship/relatednessの親密性intimacyの自由エモーションの問題になりますので、後で別次元でのべます。
皆さんは、全集編者の感情的言述に不快を持たれているようですので、そこからまず説明します。これは、実に低次元のつまらぬことをなしていながら、自分は高度なことをしていると錯認していることの、擬制的な「誇り」感情を発動させていますので、「つまらん」として処理できないことが起こされています。編集・出版として容認し難いことを慣習化しないためにも、当事者が自分で何をしているかの自覚のない感情を走らせ、かつそれが正当であるかのようなパワー諸関係が人身攻撃、人身否定へと波及しているため、はっきりさせておかねばならない。つまらぬことを侮ってはならないのです。自分もその次元へ否応なく貶められますが、逃げてはいけない、たち向かわねばならない。これが、対立の不毛さの実際になる。
正当化はどんな立場であれ、そうでないものを否定しますので、自戒を自分へ持ってのことです。とてもデリケートな領域です。個人化によって、自己が揺らいでいるのですが、それがワークの次元にまで波及してしまう、感情資本主義のネガティブな局面です。社会世界で、社会的なワークであるべきものが、個人ワークへと開放されてしまったために、歪みが同時に派生しているケースです。well-beingと自己実現に、間違いが作用した時、どうなってしまうかです。
私が既存出版社や編集者を見限っているのは、こういうことへの自覚や認識がそこには無くなっているからです。私を育ててくれた、新曜社の堀江社長や日本エディタースクールの吉田社長(谷川雁さんの弟)は、そこをきちんとなさっている方たちでしたし、そこから学びました。とくに、トラブルが起きた時への真摯な対応には編集の親密性の本質が感取されました。お二人が亡くなられて、私は既存出版とは関係をとっていません。吉本さんに関する件だけには開いておきましたが、今回の出来事でもう閉じると思います。いま、私は読書人の明石社長に、堀江さん吉田さんに通じるものを感じて信頼しています。他とは、もう接していませんので知りません。既存の規範諸関係の限界を認識され、しかし、そことの協調・調整のレギュレーションを保たれて、私のようなはぐれ者の本質主義にも付き合えるキャパシティです。
Emotinal intelligenceという状態があります、感情的だからといって知性がないのではない、働いています。それは少なくとも、三つの水準として表現されます。
(つづく)