⑸裸の王様は、自分が裸であるのを知っている。

山本哲士氏へのインタビュー5:「心的現象論・本論」に関して

山本 2022年の12月に全集が送られてきて、異様さを感じ、かつ誰が張本人かもすぐわかりました。編集助手?に入っているOgさんは、私のS社の本を作った担当者です。その人が、こんなことするはずない。この異常さは、まともな対応では真実として浮上しないと分かったので、最大限の象徴暴力性で、社長へ知り合いですから私信で、その旨をぶつけました。その対応で、ことの事態が浮上されわかると思ったからです。何事が起きたのかという根拠は、その時点ではわかりませんでしたから。だって、既存の既刊の著者本人が作った本が否定され、しかし、中身の構成はそのまんまで、一体何しでかしてるのでしたからね。同時に、正規の公開質問状と解決の指針要求を提示しました。両面からのアクションです。相手が、まだ事情を飲み込めない、理解できないうちでしたから、いちゃもんづけとしか理解されなかったと言えますが、そこが当事者がいかなる状態であるかを現出させる狙いでもあったと言えます。そうなるかどうかはわかりません。
そして問題点はそこに全て記されていますが、当事者たちに負荷をおわせるためにしたことですから、不快をもっていただくことで、本音が出るようにするたことです。
その対応を見ていて、これは何も分かっていないなということ、事実さえ理解されていないなとわかり、そこで、次に低姿勢で対応していくことになります。対話の可能性を開くためです。いくところまで行く前に、お話し合いしませんかということです。強圧と低姿勢、その両義牲は意図的にしています。不快のネガティブ感情の出現がどこからきているのかを、自分で自分へそこから問います。全てを明らかにする、全てを理解するなど不可能なことですから、徐々に露出させていくことを進めていくことです。向こう側から、ほんとの姿は露呈してきます。こちらは、自分で自分へ問うことです、相手に問うことではありません。もうしでかしているのは、はっきりしていることで、当事関係者たちにおいてそこが理解されていないだけですからね。当人は、全てを否定してくるはずです、間違ったと思っていないのですから。
仲介人をS社の方から指名されてきたので、承諾しました。
その2月の話し合いでは、ただ、事実の指摘、明示と、私の態度、考えの冷静な提示ですね。第三者の仲介人の方が分かればいいと思っていましたが、S社の社長さえもわかられた。しかし、どうしようもコントロールが効かないことを吐露されているので、互いの出版発行責任者同士でできることをいくつか提案しました。つまり、真正態度としての親密性はまだ壊れていない。でも、ことの次第状態では、壊れるなということも予測しておかねばならない。社会常識はあられる方ですから、ことの事態を掴まれている、しかし、対応処置できるかどうかは別ごとですから、手の打ちようがないことの示唆には、異常さを覚えました。利害関係は別次元で作用しますしね。3月に、私の事務所にこられるというので、そこでまだ言えないことが語られるのか、そこで溶解の方向性は定まるかなと思いましたが・・・。
ところが、訪れてこない。ああ、これはもうだめだな、というところです。出版経営責任者として、私は相手側の害にならぬことを提示してあったのですが、承諾のための必要な書類を郵送してくるだけで、これは事態を何も深刻に考えていないのだなとわかりましたので、事務所にこられたならもう一度ことのありようを説明して渡すつもりでしたが、ここまで待っても来られないゆえ、承諾を保留しています。すべきことをきちんとしないのは、アウトです。
私は本質的に社会常識の態度を優位にたてないし、規範従属の仕方は拒否し、物事の嘘、偽りのない本質的態度を貫きますので、そこから思うに根源的にわかってないな、ということと、どうにもほんとに動けない事情があるのだな、という推察ですが、私は私への真正として決着をつけざるを得ませんから、最後のアクションへ出ています。皆さんも、そう感じられているのかと思いますから、インタビューの要請をされてきたのだと思います。
このとき、私も皆さんも、自分のためにしているのではない、自分利益のためにしているんではないですね。吉本本が、正しく理解されるためのことを、読者や著者本人のために、それはまた世界のためにですが、それをしているだけですね。自分で自分に許し難い間違いを正して、外在表明しているだけです。
ところが、この全集編者は、何をしているんでしょう。読者のためですか、著者を無視しての著者のためですか? そのためには青版=偽書を実在すると主張することですか? 青版=偽書を蒸し返して、それは一体誰のためになるんですか、それを作った人のためにも、その印刷所のためにもならんことでしょう。山本が間違っていると攻撃することが、どなたかに必要なことですか? 私を攻撃して誰のためになるんですか? 読者のためですか、著者のためですか? そうではないでしょ。自分のため、自分の犯した編集ワークの報酬を守るため、自分利益を守るためだけでしょ? 晶文社のためですか? 間違いを上乗せしていくことが、出版社のためになるんですか? 目先利益ではそうなるでしょうが、少し長い目で見たなら、害を与えているだけでしょ、著者無視の間違ったことをしでかしてるのですから。
これが当事者性です。当事の自己性を、自分で自分のために守っているだけです。

最後のアクションとは何かというと、オープンにすることです。隠したり、誤魔化したりでは無い、さらけ出すことです。相手に都合の悪いことになろうと、こちらへの攻撃が増加しようともです。ハードボイルドじゃないんですから、しかもそんな信頼性の深い大事な人関係にはないですので。
知性水準では処理できない物事になっていますから、感覚的インテリジェンスでオープンにすることです。それはいちばん困っているのは晶文社自身だということです。私どもは困ってはいない、馬鹿にされているだけです。ですから、ただ「ナメンナヨ」です。
丸山眞男著作集が出たとき、吉本さんに、吉本全集出しませんかと言ったなら、「死人が出るからやめましょう」と笑いながら言っておられた。そうなりつつありますね。
2月の話し合いで、全集については直接もう語りませんから、とS社社長へ申しました。わかられたと感じたからです。ですから、事実だけを再度クリアにHP、YOUTUBEで画像も資料的に見せながら、読者のために、今後の吉本研究者のために残しておくことだけしました。批判はあからさまにはしていないと思います。
ですが、このインタビューで、やはり触れざるを得なくなりましたね。この問題を作り出した原因根拠の、張本人はたった一人ですから、否応なくそうなるしか無いですね。張本人が墓穴を掘って、もう正体を露出したようですから、私が狙った通りになってますが、著者そっちのけで私=山本を攻撃するしか無くなっているようですが、こちらは人を攻撃してもなんの意味もありませんから、困ったことだなあ、いい加減にしろよ、けど、3倍返しになるぜ、という情感に今あります。
語ることは、誰であれ自己正当化にしかならないですから、ただ、どうしようもない次元で周囲の物事が動くんだなという実感に、驚いてはいます。それは、プーチン支持者はいるということの実際と同じです。
それはすごく単純で、自己利益、もっとはっきり言えば自己経済利益を守っていく存在です。そこだけでしか、動いていない存在です。
つまり自分の身銭稼ぎに、「本論を消した」ということだけしかない。自分のワークを報酬可能性、身銭稼ぎへ作っただけです。皆さんがいうように、そういう人格が自分のために、著者の存在をひん曲げた、ということのみから起きている事態です。プーチンが自己崩壊するしか戦争が終わらないように、当人が自己崩壊することでしか、その先へはいかないという悲劇ですね。そこから、茶番劇だという次元が開かれますが、悲劇が最初に来ますね。これは、とても不健全です。たった一人の我執によって皆が迷惑を被っている。裸の王様現象の茶番ですが、一番自分が裸だと知っているのは王様自身であるということです。この張本人は、自分が何をしたかは知っています、しかし、それを認めてしまうと、自分は馬鹿だということになってしまうので、前よりも威勢よく新しい着物を着ているんだと思い込んで自分へ言い聞かせ、行進し続けるという茶番です。そうなれば、悲劇は脱せますね。ひとり頑張って歩き続けよ、の茶番です。
観衆も裸だと知っているのに、新しい着物だ、素晴らしいと讃えます。ただ一人の子どもだけが、「何も着ていない」とほんとのことを言います。大人たちは自分では言わない、ただこの子が言っているよ、と言うだけです。これが、私の言う<事幻化>です、物象化ではない。見えてないのではなく、出来事は見えています、より複雑な疎外構成です。吉本共同幻想論をふまえての私の古事記解読のappendixをご覧ください。そのより詳細な構図化は、新書フーコー論のappendixで描き出しています。
(編者注:『古事記と国つ神論』、『ミシェル・フーコーの統治性と国家論』ともに「知の新書SONDEOS」)
ーーでも、この人は墓場まで、間違いを持ち続けていくしか無いようですが。
山本 自己疎外は安楽なんですよ。その人を心配する必要もないし、そうやって生き延びてきてる類の人はしたたかです。一般論としてですよ。ここで、人生相談しても意味ないですから、もういいんじゃないですか。他人の糊口の道を奪う権利はないですし、すべきではないと思います。「ふてえ野郎だ」でいいじゃないですか。大したもんですよ。30巻一人でやってきたんですから。でも真摯な編集ワークであれば、巻を重ねるごとに謙虚になるはずです。半分ぐらいから、逆生産が起き始めて、尋常じゃない状態になっているのでは。偉くなったつもりになってきているのは必然ですし、そこで今回のように傲慢無礼になっているのは、編集ワークの質が悪いことの現れであり、凡人以下だということでしょ。編集者の態度・姿勢・質の総体としては完全失格です。2008年版がどれほどの尽力でなされているかさえ気づかない無能です。間違いだらけを後の人たちが始末していく仕事が累積していますけどね。
さびしい話ですね。思想風化が起きていくだけになる。全体として、吉本単行本の迫力は見事に消されましたね。オリジナル本しか資料価値はない。昔の第一次著作集はよくできていたんですがね、本人が関わっていたからですね。表記も元のままに残されていた。さらに川上さんの解題は助けになった。
残念ですね、この全集は研究者は使えない。編集方針の根源的な間違いです。
ーー解題はもう信用できない。力量不足。個人的批評です、いちゃもん付ではない。編者偏向の仲間内だけで作られてもいる。
編集がダメでも、私たち古き者には馴染めなくとも、オリジナルな言述は吉本さん自身のものであるのですから、そこから新しい読者が新しい体験をされていくことは否定すべきではないと思います。そのためにも、「本論」をちゃんと著者通りにすることですね。
ーー山本さんだったら、どういう風にしました。
山本 三つの本質論を最初に第1巻から3巻(実質は、5、6巻になるでしょうが)で出しますね。世界へ通じる質がそこにあるからです。そこに関係する論考を選択付加します。そして単行本ごとに、それをコアにして、またテーマ性を立てて思想構成します。ただ単行本だけの羅列ではいけない。世界に意味ある水準として。未収録ものは、貴重ですから、テーマごとに関連して収録。思想表出がないようにして、ずらずら並べるのはただの無能編集です。数人の編者に入っていただかないと無理ですね。年代資料集など、全く意味ないですよ。思想形成すらこれでは了解され得ない。表現ということをわかってないだけです。
フーコーの論考集を、社会科学・歴史を軸にしてフーコーが亡くなったとき作りましたが、たった1巻で、もう関係者のバチバチの対決になります。そういう研鑽を経ないとなせないことです。筑摩のフーコー集成は論稿だけでしょ、これはフランスの編者たちがしっかりしているからできている、とてもいいですね。ただ年代羅列ではない。吉本さんの場合、テーマ性が確固とありますから、なおさらです。でないと、コスモスではないただカオスになってしまう。私が吉本論で図解した、3角形の構成が指標です。
ーー吉本論は、これから書かれるんですか?
山本 文学・歌謡論は仕上げたいと思ってやってたんですが、放り出してしまいました。なんで、伊勢物語、蕪村、宗祇なのか、なんて考えたいくだけで面白いんですが、もういいや、という今回の出来事ですね。うんざり。でも、学んだことは生かしています。しかし、本質概念は全て転移していきます。私の述語制は、吉本さんの英訳をネイティブの人とやっていて気づかされたことです、この主語は誰かと、ネイティブの訳者は聞いてくる。主語がないことに気付かされたのがきっかけです。この英訳をどっかの誰かがひどい訳だと批判してましたが、いい気なもんで、まったくに「不可能だったこ」とがきっかけです、思考構成が違うんですよ。英語構文にはまらない。藤井貞和さんの源氏物語論と一緒になってやったんですが、同じことが起きた。カナダの経済思想史家のアンドリューがこの英訳読んで面白がって、デュスカッションしたんですが、別世界みたいに違ってくる。
この頃、映画の吹き替えで違うバージョンを放映したりしていますが、訳は定まり得ない、というより、構文の違い上から絶対不可能です。以来、私も自分の英訳を作るのをやめました。日本語が世界言語の一つになったとき、吉本思想や西田哲学の真の偉大さはわかるんではないですか。和辻の貧相というか出鱈目さも判然とすると思います。
カントやヘーゲルの邦訳の不可能さへの自覚は、とても重要な事になる蓄積がこれからやっと始まるんじゃないですかね。出鱈目に蓄積されてきた、日本近代の欧米消化です。だから、吉本思想の固有な偉大さ、世界的普遍性を、大学人たちはわからないし、生かせてこなかったんです。全集を消費文化化させればさせるほど、風化するだけですよ。窓際のトットちゃんと資本論は等価だ、という思想提示は、消費文化・大衆文化の見直しとして意味ある情況論ですが、本質的にはまちがでしょ、雲泥の差が表出としてあります。読書人の明石さんから、話し合い後、吉本名言集を作ってくれないかと相談がありましたが、いや、名言は何も言っていないのを意味するし、穴ぼこだらけで、実存的慰みや情感充足がくるだけで、知的資本として、分離された言葉は機能しない、とお断りしましたが、まず吉本思想総体の了解基盤がまだできているように思えない、それが全集制作で、「本論」概念とその世界を平気で抹殺することに表れている、そこに深刻さを感じてもいないことに顕著だと思います。ただのミスではないですよ、そこに発動されている編者の意思とそこへの同調は全体主義からファシズムへの兆候の一つです。つまり、制度的な既存のものの再生産構造が制度権威権力化していって、そこに従属する個人化された勝手さだけが保証される構造の画定です。創造生産は、自己抑制されます。抑圧されるんではない、自分で依存従属していくんですよ。差異の質の競合を問わない、なうなうの仲間ごっこがパワー作用していく規範世界になります。規範受容が自由になっており、疎外状態が天国になっていきます。個人化されているから自立しているんではない、個人化を保証する全体に依拠していることで自律性さえ麻痺している状態の、感情資本主義です。物事の諸関係のレギュレーションを図るんではなく、感情剥き出しの自己主張の支離滅裂さがリアルな表現だとされてしまう、プーチン的状態です。周囲が手をつけられなくなり、そこに従属して、後始末をさせられる。自分自身でいられる状態を妬み、共同性でもって排除するということが起きて行きます。
犯罪者は、自分が犯した犯罪を知っていますが、なぜその犯罪がなされたかへの自己認識はどこかでずれていくのですが、感情状態に対してはその人自身によるそれへの認識や認知や評価は判然さとしては劣っていく。とくに全体主義的状態では、犯罪を犯している自覚が喪失していきます。個人化されているのですが、それを共同的全体性が保障しているからです。武力侵攻し、住民を殺しているのに、その自覚や認識が喪失します。それだけではない、反攻によってさらに住民が死ぬと、戦争をやめさせよう、やむなく防衛の戦争しているあり方さえも、同じ人殺しだと同一化していく意見が、大学知性知識人たちによって語られます。この兆候は、非常に危うい状態です。相対的に客観化すれば、善だという最善が最悪になるケースです。事実がどこにあるのかさえ、わかられなくなっていきます。事実の真実追及が、多くに害を与えるという事態にさえなっていきます。だから、真実の追求はするな、という全体主義です、それが安楽の全体主義です。ここの問題は、医療化における予防や、犯罪と犯罪者との同一化や、いろんな場面で起きていることなんですが、小さなことにおいて、間違いをするなという禁止ではなく、間違ったならすぐ素直に謝り修正することのたいせつさとして実際行為することです。間違いを、間違ってないと疎外真正化することではありません。
エリートだけが創造的理解できるということじゃなくて、地盤・基盤の了解水準がひどすぎる、劣化しているということです。
そこに対峙し続けている、田舎学者をなめんなよですね。
学生時代、院生時代に、後輩たちと吉本著作集読解の合宿を何度もやり、たくさんのレジュメを作りましたが、こういう学ぶ泥くさい基盤作業を今の人たちはしていないように見えます。
「読む」という作業は、アルチュセールたちの「資本論を読む」に顕著なように大変な作業ですが、三流教条主義凡人のバリバールと、マシュレやランシエールの高度な読みとの違いに現れるよう、分岐します。ただ読めばではすまない。その自戒のもとで、私は作業していますから、いつまでもただひたすら学び続けるだけです。そこから、紙一重で、自分自身の固有さが表出します。わかったつもりが、いちばん最悪ですね。わからないから探究がなされる、これは永遠に続くことです。
吉本論稿を何度読んでも味が出るし、発見がある、何も答えを出していないからです。ということは、穴だらけだということですが、その穴にこそ、吉本さんが現出させたものがあるんです。だって、対幻想と共同幻想との関係なんて、何も理論化されてないですね、私なりにそこを理論表出させたのが晶文社での吉本論ですが、S社がその意味をわかってないゆえ、今回の事態収束が、別次元で動いていくことになってます。目先の経済性の方が優先されているんですよ。それ以上は言いませんが、私が依拠できる出版社ではないですね、昔はいい本出していましたが、今やそれでは成り立たなくなっている、残念ですが。
Z社長も私の距離感をとったそこを感知されたと思います。でも、親密性の瓦解は避けたいですね。それは次期全集の編集新体制を複数者に転じることでしか繋げられないと思います。今のままでは、間違い累積はとり返しならぬ事態に必ずなってしまう。
しかし、私は絶対的にもう吉本さん関係には関わりたくないです。自分がすべきことがまだ山のようにありますので。それは、初期歌謡論で描ききれていない、歌学言説と「てには」言語論体系との詰め直しです。日本語言語理論の言説生産です。西田哲学の場所論・述語論が絡みます。
ーーこちらなりに整理させていただきます。いくつものことが絡み合っているために難しいのですが、理性的にまとめてみます。しばし、時間をください。1週間後に、またもう一度インタビューをお願いします。
山本 私も同時的に絡むいろんなことを同時的に語ってしまう他ないため、あっちへ行ったりこっちへ行ったりしてしまいますが、大事な軸は、吉本思想理解における「心的現象論・本論」の意味がいかなるものかです。ここが浮上していないため、問題が起きています。三つの本質論の体系的関係ですね。
(第一回インタビュー、終わり。本論の画像を提示しておきます。)
つづく