⑹全集が甦生されるために:間違いは修正されること

山本哲士氏へのインタビュー6:「心的現象論」に関して

ーー次のように整理させていただきました。
山本さんの話や書かれたもの、全集編者の公にされた言い分(当人は尋常ならざる人物と判断し聞くに値しないと判断)、さらに我々なりの調べからです。継承は省略させていただきます。

1)全集の刊行において、山本はS社より請われてその普及に協力していた。横超忌の報告のS社HPへの掲載承諾や、全集普及の講演を二度なした。
そこで、山本は全集に協力すべく2008年版の組版を提供するとS社社長に提示した。そこにいくらか払いますよという対応に対して、無料でいい、大事なのはちゃんと吉本著作が作られることだと答えた。全集制作にあたっていたS社社員のOgは、心的現象論・本論の月報は、「山本さんしか書けないゆえよろしくお願いします」と嬉しそうに言ってさえいた。
山本は、いくつか誤植がある、それを提示する、さらにパンフがまえがきとしてある、など資料的提供もした。
しかし、その後、何らの対応もなされなくなっていった。
(これは、全集編者Xが、自分だけで作ることをS社がわに提案したことから起きているため、S社は山本とコンタクトを取りづらくなった。社交性を優位に立てない、質のキープに物おじしない「山本さんは、怖いから」というのがS社社長の口癖であったという。)
文化科学高等研究院(EHESC)出版局は、2008年版の在庫がなくなったため、「再版」ということで、パンフで入れられなかった「まえがき」を入れ、また「まえがき」のために構成した愛蔵版所収の「付録資料」を外し、著者自身と約束した定本と言える「本論」を新書形態で、少しでも安く読者へ提供すべく刊行し、それをS社へも届けた。2022年1月。
「まえがき
本文
あとがきにかえて:心的現象論の刊行にあたって」
の構成である。
もう、この時点で、「本論」寄贈したEHESC出版局への礼もなく、何らの対応もS社社長からもOgからもない。
全集版は、「付録資料」がいかなる経過で作られたものか、その理解も知ることもなく、そのまま愛蔵版を踏襲して収録している。山本によれば、それはまえがきが届かないため、再度吉本インタビューをなしたが、本人および山本・高橋もこれではまえがきになならないととり下げ、そこに吉本がすでに述べていたことを山本がほとんど拾い上げながらまとめたもので、自己表出性がないゆえ、再版においてははずすが、愛蔵版の特典として入れさせて欲しい、とされたたもの。
S社の微かな変質さは、2022年初頭から山本には感じられていた、という。
コロナ禍もあり、EHESC主催の学会がS社会議室を無料で提供され使用されていたことを、コロナもあり迷惑がかかるゆえとEHESC=山本は、別の場所へ移した。
この新書刊行と会議室借用の非継続とが、S社側に何らかのファクターを与えたと推察されるが、事実のほどはわからない。
以上が、前段階である、S社と山本との親密性の関係の段階である。
山本は、S社の経営事情も聞かされていた。古くからの編集者の方が、山本への親密さをキープされていた(この編集者は2022年に亡くなっている)。
また、山本はS社社長から、新たな印刷所を紹介してもらったり、配本にあたっての情報提供を受けたりと、出版状況でのサポートをS社及び社員から親切に受けていた。
つまり、出版社と著者との関係で、山本にはそれまで絶っていた出版社との関係を取り戻しつつあるように見えたのも、Z社長からの積極的働きかけがあったからだ。だが、山本が出版社へ本源的に抱いている不信感を払拭し切れるほどのものではなく、少しづつ疎くなっていった。どこかで、全集を権威ぶっている気配への違和感であり、謙虚さの影に隠れた中レベル出版社の小出版社への蔑みである。実質がないとそうなる。
全集は、毎巻山本へ寄贈送付されていたのは、S社での山本著「吉本隆明と「共同幻想論」」の印税を山本が断ったことへの返礼的対応であろう、そこではまだ礼儀がちゃんとなされている。この書は、山本がS社から要請されて書いた。
ただ、山本がいうには、寄贈に「Z拝」を記されていたものが、2022年の後半には無記名になったという。なんでもない小さなところに兆候は出る。(2月の対話後、再び記名になった。)
この親密性の段階を取り上げたのも、全集30巻の刊行の仕方がいかに異様であるかを示すためである。

2)2022年12月末、全集第30巻が、「本論」構成を踏襲していながら、「本論」タイトルを消して、「心的現象論」と題されたものが、山本へ送られてくる。そこまで、なんの連絡もEHESC出版局にも山本にもなされていない。差出人は社名のみ、無記名。
ここから、今回の事件というか出来事が始まる。
(山本は私信で、Z社長に激しく抗議。あまりに異様なことがなされていたため、真意を知ることが理由。山本が知るところの誠意ある出版社であれば、普通はすっ飛んでくるはずが、社長はそれを吉本家、編者に見せると、対応を直接にとらないゆえ(当事者性を転化しているため)、山本は本格的な抗議書を公開する。
全集の「本論」タイトル抹消に、違和感を感じた読者の我々は、山本の公開抗議から、我々独自に署名活動をウェッブ上で展開する。だが、これらは、傍流の出来事であり、著者決定の「本論」が抹消された出来事への付帯的なもので、別ごとである。)

3)全集は、本文の作成にあたって2008年版の組版を使用せず、本文全ては自分の側でやり直している。これは編集サイドとして見れば、一見固有のことをしているようであるが、2008年版が構築した様々な物事を何らかの形で無意識的に必ず踏襲している。本作りしている者なら容易にわかること。
さらに、その見える現れが、「あとがきにかえて」、「付録資料」、及びまえがき(愛蔵版パンフ)の、そのままの無断盗用である。全集を見るといかにも自分たちがやっているかのように按配されており、「編集部」というのが山本たちであるのに、自分たちであるかのように何の注釈もない。継承しているのに、「本論」の著者が生前に題した書籍の表題を、排除し、「心的現象論」と著者無視で勝手に名付けられて刊行された。我々読者は一つにまとまったのかと思い手に入れたなら、「本論」箇所でしかなかった。偽装を感じたと、言っておく。
さらに、内容に、「試行」連載にも、2008年版にもない、章立てのような番号を勝手に振っている。固有さを示威したいのであろうが、あまりに安易である。
さらに、解題において、著者も発行出版社も刊行していない認めてもいない、すでに処理された2007年の青版の書=偽書の存在を蒸し返し、そこに「本論」2008年版を系譜づけている。これが、全集が勝手に起こした「問題」である。何らの打診確認も、2008年版をなしたEHESC出版局に問いただしもしていない、想像で、実在しているからと解題している。実在だけ問題にするなら、『試行』コピー版はなぜ取り上げないのか、出版社記述がないからか。要するに、表面の形式記号だけで判断している、全種制作としての失格である。偽物は、いかなるジャンルであれ、本物らしく作る。そんな基本も了解できていない。
そこには、関係性の拒否ないし排除が明らかになされている。刊行者からの間違い指摘に逆ギレして、事実指摘を無視する。青版は、組版をそのまま本にしたずさんな、デザインも粗雑な、誰が見ても販売書籍の体を成していない。プロが見れば、印刷粗雑さはすぐわかる。
全集版では、あとがきなど付属物への使用許諾もとられていない。かなりのコストをかけて、EHESC出版局が創成したものだ。その単行本の構成を盗用として継承していながら、「本論」の名を継承せずに抹消した。
問題は、また我々読者たちにわからないのは、なぜいかなる理由で、全集版はこのような編集倫理を破る暴挙を平然となしたのかである。
最終的に判明したことは、S社社長も知らずに、編者が独断でなしたこと、それをS社制作担当者社員が伝えきれていなかったこと、しかし、そのようになされてしまう雰囲気ないし環境がもう作られていたこと、つまり編者一人の独壇場に全集が私所有されてしまっている状態だと、我々は判断する。その後の、編者の支離滅裂な人身攻撃の言述を見れば、自分勝手に傲慢になしていることが明確に読み取れる。この時点で、2008年版の内容と意味を理解できている状態がS社にはなかったことが明らかと言わざるをえない。編者依存で、出版社の責務が履行できなくなっている。山本たち2008年版の制作関係者たちへの確認を怠っていたことから起きている。山本が協力を惜しまないとしたことも断ち切らざるを得ない事情が起きていたということだ。確認すれば、簡単に済むことである、それを「なせない」異様な状態である。

4)2023年2月上旬、山本、S社社長Z、仲介人読書人社長明石の、3者会談がS社社長の提案でなされた。仲介人の指定は、S社社長からなされた。そこで、山本は実物を示し、吉本著者本人といかなることがなされたのかを説明。(我々も同じ説明を受けた。)青版の虚実も明らかにし、蒸し返されたことをS社社長も了解しえた。仲介人明石社長は、ことの事実を了解できた。S社社長も、驚きながら、事態を理解できた。だが、編者への統御が効かないことがZ社長から強調された。この時点で、張本人はただ一人の人物であることが判明。ただ、出版社による管理責任がなされていない状態を、我々は異様な状況と判断する。というより、著者確定の表題を変えてしまったことで、何がなされているかの自覚・認識が真にあるように見えない。ただ、問題が起きないようにという処方がなされているにすぎないのを感じる。
(この話し合いを通じて、我々は署名活動の公開を停止、山本は、事実経過のみを語る形式へとブログなど公開ものの批判トーンを無くし、さらなる解決を待つ。
他方、S社HPに記載されていた、「山本による言われなき中傷に対して法的手段へ訴える」という告知文を取り下げたが、山本は公開したまんまでも構わない、法的闘争はむしろ事実が明らかになるゆえ喜んで受ける、恥を書くのはS社自身であることを示唆した。弁護団を準備しているというが、はったりの脅しであろうが、かかる脅しはなんらの効果を山本へもたらしていない。事実の真が、山本側にあるからだ。動揺しているのは全集側であることからも、真偽ははっきりしている。
だが、こうしたやりとりは、問題を外在化させたものではあるが、傍流がなしていることである。著者が確定した「本論」が消された、著者無視の第30巻であることが本題である。)

5)全集はその「自分勝手な編集ワーク」を隠すべく、正当化のために、試行掲載後の後の別単行本収録の稿での変更や、赤字入れの稿などを掲載することで、全集の固有さを主張し、過ちを隠す手法に出ており、解題をそのように編者の自分勝手さを客観化で粉飾している。つまり、著者でなく、「編者の自己ワークの正当化」をなしているものになっている。新しい方が真であるとはならない。
さらに、2008年版の真正性を非真正化すべく、2007年の偽物の青版を浮上、強調させて、さらに問題を山本の不守備から起きたと、自分の間違い=横暴さが原因であるのに、他へその原因を転じることをなした。ここに、意図的かつ無意識的に、間違いをなしたのは編者自身であることが表れている。
さらに問題発覚後には、著者があちこちで述べている「本質論」ではなく、それをも消し去り「長編評論」であると、偽装に偽装を積み重ねている。
なぜ、「本論」削除・抹消をなしながら、その謝罪や修正をすることなく、自分たちの身勝手さを確保し続けるのか?

6)全集編集が、出版社の管理を超えて、編者個人へと絶対化されている実際は浮上したが、その根拠が判然としない。なぜ、かかる横暴なる編集作業が可能になってしまっているのかである。出版社も手をつけられない横暴さ、独善性が明らかにある。そこには何らかの出版社の弱みがある、それが出版常識を踏み外す根拠になっているが、出版社は隠している、としか映らない。
間違いは、ただ一点、編者一人による独断横暴によって、「本論」抹消がなされた、その1点のみであると判断できる。出版社は、その編者および間違いを、守るべくその後始末に追われている。Z社長は急性高血圧症に襲われてしまった、原因は全集編者であり、自身のことであり、山本や我々ではないのも、問題を起こしたのは全集30巻自体であるからだ。ここに、原因を相手になすりつけるという、自己正当化の集団性=共同性を図ろうとする全体主義的兆候が、そこと最も思想的に戦ってきた吉本全集の出版刊行に起きたことゆえ、我々は放置できなくなった。

7)外注の全集編者Xは、その編集ワークで身銭稼ぎをしている。それが山本たち2008年版の組版提供によると、収入が減ってしまうため、全部自分でやると、その正当化の処置に出た。山本の排斥がなされ、そこにS社は従うしかなかった状態と言える。それが、問題として発覚した時、「俺をとるのか、山本をとるのか」という著者を放り出しての言動として現れたことだ。物質的ファクターとして、これ以外に考えられない。
これは、山本の問題ではない。山本以外の者たち、青版の製作者個人、全集版編者個人によって、勝手にまき起こされている。吉本を使った経済稼ぎが根源で作用している。それ以外の根拠は考えられない。青版=偽書も全集版もともに、吉本を尊敬しているのであろうが、生前において山本と吉本となした「本論」発行に関する信頼と親密性とに、遥かに劣るのみならず、それを無視しながらその構成の盗用と「本論」概念の抹消が、共通している。
そこへの嫉妬情感が、全集編者Xには明らかにあると言えるゆえ、的違いの山本攻撃に走っている。これが、感情的ファクターとしてあると言わざるを得ない。

8)我々は放置できないと、山本へのインタビューを要請、山本の考えを確認することにした。

余計なことは省き、本筋だけで、まとめました。
非常に現在的な、関係の反転が起きているのがわかります。多数の「心的現象論・本論」の購入読者たちは何も言わず、偽書を買わされた数名が騒いでいると言うのも、自分のは本物だと主張したい気持ちからで、わからないでは無いですが、事実を知らない曲解を主張しているのはその一つの現れである。事実を調べもせずに、実物があればそれは真実だという安直さは、著者死後では非常に注意せねばならぬことである。が、当事者を無視するという兆候には、危うさを覚える。
以上です。

山本 やっと私がアクションを起こさざるをえなかったことの理解がなされてきたようですね。半年ぐらいは冷静な判断がなされるのにかかると踏んでいましたが。内部的な非公開の話もオープンにされてますが、編者の対応からやむなきでしょうね。
しかし、それは亀裂の増幅ですから、解決でも溶解でもない、という悲劇というか物事のお決まりみたいなことになるだけが、実際ですね。
徹底しきると、憎まれるだけですよ、世間では(笑)。
編者から異様な人身攻撃がなされていると、みなさんから説明されて、あにはからんや、読んではいないですが、やむなしとこのインタビューに応じました。
また、全集には触れないと約束させていただいたのですが、間違いを認めないどころか逆に人身攻撃がなされているのを出版社がコントロールできていないのですから、やむなきですね、Z社長、すみません、としか言いようないですね。言い訳めいて嫌ですが、ひでえことにへーコラでは、もっとひどいことになりますゆえ。。。
実際世界で、真実の一義的決定がなされることは、ほとんどありえない。ゆえ、サスペンス映画やクリミナル映画が成り立つわけですけど、犯人は必ず確定されていく、そうでないと収まりはつかない。今回の出来事での、たった一人の犯人は確定されたと思います。
whodunit( Who done it?)とhowdunitは明らかにされていますが、whydunitは、ただ個人の仕業に止まらない、その人にそうさせている時代の隠れた社会閉塞状況があるということだと思います。
「本論」刊行の2008年7月から、ちょうど15年です。
まだまだ、読まれていないな、という情況ですね。こっちの方が大きな問題です。

ーー私たちはもう30巻以降、全集を見ようとしていませんので、そこまでのこととして述べています。
山本 私も同じです。送られ続けていますが、開封もしていない。
しかしながら、こう理解していくことかと思います。
二つの「本論」本文が産出された。2008年版(2022年新書は定本)と全集版2022年です。けだし全集版は、「心的現象論」というタイトルが間違っており、「心的現象論・本論」と修正すべきです。「心的現象論」というのは通称か、あるいは正確には「試行」連載のすべてのことです。単行本は、「序説」と「本論」です、実際に刊行された書です。
この「本論」版が二つあると考えればいいのではないでしょうか。生前に著者が関わったものと、死後、著者が関わってないものです。
最初は、問題を顕在化させ、隠れている事情をうき立たせるためにリコール要請の手法をとりましたが、もうつくられた全集を救いだすには、この仕方しかないですね。著者が「本論」と決定したことなんですから。
協力し合えばいいものが出来上がったのに、全集編者が独我的に拒否・排除したことから発生した問題です。私は、いつでも対話に開いています。彼らが、逃げている、ないし回避している、間違ったのを知ってるからでしょ。
蓋し、前者は、著者本人による真正な物ですが、後者は著者本人の真正性にはありませんのも、「本論」概念が消されているからです。厳然たる事実です。
「本論」を消すなら「序説」も消すべきです。そして一つの『心的現象論』とするなら納得がいきますし、著者の本来からずれないと思います。
「本論」として全集が間違いを認め、直さない限り、後者全集版はただの偽書になっていくということです。
また、心的現象論とし続けるなら、常に、間違いであると、私は事実を言い続けるしかない。
私ははっきり断言しますが、我々が著者本人とともに作り上げた2008年版がなかったなら、全集版は絶対にめためたになっていたと断言します、編集ワークがわかっている人なら、すぐわかることです。ただの字面の移行ではないんですから。
吉本さんもそこをわかっていたから、編集ワークで何されるかわかったものではないと、既存出版社に渡さなかったんですよ。第二次著作集が、曖昧な編集になりましたね。全集撰は途中で切れてしまった。編集者たちに限界を感じていたと言える。「母型論」は、それぞれの内容は深いが、構成が乱雑でしょ。ただ「全対話」の編集刊行は、ちゃんとなされた。
我々は、直接性で、著者と直接に2年がかりで作っていますから。絡んでからは5年以上。そこで、他の単行本集録された書き換えを使えとも、ここに赤字加筆があるから使えとも、いっさい提示されませんでした。「戦後55年を語る」だって、武氏や高橋氏の編集力がなければ不可能ですが、我々学者たちが絡んで協働したからできた事です。一人でできるわけがないし、編集者だけでも、学者だけでもできない、協働が要されます。身の程を知れですね。
吉本さんは、生の元の「試行」からやってくれということです。
赤字発見は良い事ですが、注釈・解題で述べるべき事です。別に大発見じゃない。
もう、「55年を語る」時点で、赤字入れはほとんどなされていなかった、他の聞き書きやインタビューのもです。眼の具合が拡大鏡を見るしか無くなって不自由されていたからです。
赤字で書かれたことに、思想表出があるんではないんですよ。全面書き換えだったら意味ありますがね。こういうことの協議が全集ではなされていないですね。ただの独善でなされて、完全にミスったのが「心的現象論・本論」の巻ですね。
吉本思想の迫力というか説得性は、行間や文字間から溢れ出すものでしょ。そこには、実はシニフィアンが隠れて動いているからです。シニフィエで整理していくだけでは、枯渇するだけです、思想や哲学は。

相手がどうのこうののことよりも、「自分の自分への自己技術」として、しっかり自分の考えと行動をなしていかねばならないのです。物事は所詮理解されないのだと、中途半端に終わらせることでも諦めることでもありません。分かった風が、いちばん最悪です。対立は対立なのです。闘いは闘いなのです。勝った時には、両手万歳ではなく、相手は負けて傷ついています。また、負けたなら悔しくて、復讐するんではなく、再挑戦していくことです。論争は昇華されると言われますが、日本であれ他国であれ、実際にはそうはなりません。この点、ボルタンスキーは楽観的ですので、論争の意義を強調しますが、その根拠には「シテ」が六つ(七つ)作用していると論証しましたが、今回のケースの場合、日本ですのでそこに当たるものは文化的にないように感じます、ただの、間違いを犯した側と、オリジナルの側との対立です。強いていうなら、ジラールの羨望の三角形、吉本さんにたいして競合する配置が作られてしまったということですかね。私は、何も羨望していませんが。間違いは、全集編者の対抗的羨望から発生しているのは構図的に確かですね。
「怒り」の情感は他者へのかつ自己へのコントロールですが、中傷したり汚したりすることではない。

私の銘は、自分のことを書いたわが書のタイトルどおり、「聖諦」です、その「月明かり」であって、陽当たりではない。知的探究の限界からの飛躍です。くだらぬ出来事に巻き込まれた、そこでの「聖諦」。やむなく、闘ってます。
批判理論は、外在性への省察になります。しかし、社会現実が一枚岩でないように、また曖昧な両義性ないし矛盾にあるように、個々人の認知や認識も両義性に配置されてしまう。吉本思想が、マルクス主義を拒否するのも、その客観化によってでは「自分の世界」は究明し得ないからです。個々人の「情」や「意志」の心的作用の重要性を、最初から自分へ向けて気づいていたからです。だからといって、人それぞれだ、個々人の考えや感情や想いや意見は違ってあるんだと、相対主義に陥ることはできない。今現在、ここに、歴史的・時代的に構成されている問題や矛盾は、何らかの仕方で解決され得ていく、しかし、人間と自然との関係における自然疎外は、本質的にあるもので、解消されることではない、その観念、心的現象を、吉本言説は、言語表出や幻想表出において探究し、文化的、歴史的状態も加味しながら、「序説」で原生疎外と純粋疎外の配置を示しながら、病的・異常に表出してしまう心的疎外をどう考えていったならよいか、その外在的解明に代わって、内在化的な表出を「本論」で定めていったのです。この三つの本質論は、世界で誰もなしていない、固有の言説です。これを評論と平気で言える全集はやはりおかしい、というか何にも分かってない。著者をナメている。早く編者を切り替え、複数人が関与することで、間違いの積み重ねから脱することです。一人の勝手な独善だから、こんなバカなことを累積していく。
私の言い方に変えると、観念資本のあり方の構造関係の了解探究です。つまり、感情資本主義や感情専制主義を歴史的表象において探っていた、となります。私は、知的資本に関わる「観念」と情緒資本に関わる「emotion」との関係を、心的現象論・本論から究明していくとなります。ヴェーバーもマルクスもジンメルもデュルケームも、社会科学的思考においてさえ、エモーションへの配慮をしていたんですから。ヘーゲル観念主義ではない。
三つの本質論の、ベクトル分岐の核にあるもの、それが「述語表出」になると私は配置しました。指示表出/自己表出、幻想表出を可能にしている心的構造の本質が「述語表出」であるということです。この述語表出は、原生疎外から純粋疎外の関係表出において<もの>を疎外表出し、純粋疎外は歴史疎外される関係の中で<物>を疎外表出し、感情資本主義世界への疎外表出で<商品化>をなすというように考えます。<商品>を「価値と意味」から解き明かそうとしたのは、物体のみのことではなく、商品に魅了され誘惑され便利で快適さを与える情感・感情のエモーショナルな閾まで考えようとしたものなのです。経済は、物質的に動いているだけではない、情感的だといっていいと思いますが、本人がその概念次元を作っていなくとも、観念世界を徹底して探究したことからなされていたのです。ハイ・イメージとして想像空間化されているだけに止まらないものですね。大学人言説が永久的にたどり着くことのない次元です。
大卒知性次元での編集など勘弁してくれよ、「ま・ろく」もいい加減にしろよ、このペンデーホ、です。
ーー何ですかそれ?
山本 (笑い)。スペイン語のグロセリアです。聖人ぶってなど私はいませんので。知的偽装をなす輩には、反吐が出るアブジェクションを感じます。くだらぬことが、大手をふるって闊歩することを、黙って見過ごしなどする賢さは私にはない。私は、愚者です、「闊達な愚者」というのが知的な作業での生き方で、とても共感できたものでした。
ーー本音は言っていないということですか。
山本 ええ、まだ言っていない。ご存知でしょう、私が本気で怒ったならどうなるのかは。また、本気で、闘いに出たなら・・・。自分を完全に捨てますからね・・・・そこに値する出来事じゃないですが。。。。人の悪口は脳が悪化し、人格がうす汚くなるだけですからね。笑いと茶化しで・・・とめておきましょう。
ーーええ、山本さんは自分の身を守られないですから、傍にいるとヒヤヒヤで心配になります。無能な仕方が知的ぶったときに、心底怒られますね。しかも、直接性で。
山本 研究者をナメンナヨ、アホンダラ、ピンチェ・カブロン・・・ぐらいで・・・(笑)。
まとめで述べておられたように、物理的要因と感情的要因が絡まって、根拠はこれだと示し得ないと思いますが、自分だけが一番だ、俺が偉いんだという仕業であることは確かですね。怒りは統御でなく、支離滅裂になっていく。そういう傲慢な人は、何を言っても自分利益確保の自分納得でしか物事を理解できませんから、他者に耳を傾けることはない。
対立した時、相手は何をしてくるかを考えていないんではないですよ、それを見込んで闘います。闘いは、自分を守ったなら負けです。でも、そうなる前に、まずはオープンにしてしまうことです。それから、相手が攻撃できる余地を残しておくことです。でないと、相手は窒息してしまいますから。その余地とは、その人の逃げ道でもあるんです。そこから先、どうするのかは相手次第のことになります。こちらの問題ではない状態にもうなっていきますから。そして、わかる人はわかる、わからない人は永久にわからない。分かろうとしていないからです。自分の過ちを自分で理解しない人は、いかに横暴になろうと自己破綻するだけです。
そして、一人がいちばん強いということですが、ですから間違っていたなら自己破壊にいってしまいます。他者は、破壊することはできない。
この編者がいなくなったなら、修正は必ずなされますよ。編者が我執しているだけでしょ。そうされないと、全集は半死状態になってしまう。吉本理論言説の三つの主柱のうちの一つのことですから。全集を甦生させるために、このインタビューを私は受けています。つぶすことが目的ではありません、健全な編集体制を作れということです、吉本さんのために。
今回の件は、ただ「本論」なる二語のあるなしではない、本質理解に関わることゆえ放置できないのも、さらに吉本思想個別に終わる問題ではない、みなさんが言うように編集・出版の倫理や仕方、さらに世界状況の負的な後退に関わっている出来事です。大袈裟ではない、こういうつまらぬことの積み重ねから、全体主義は浸透していくのです。トロツキーやブハーリンは、スターリンを馬鹿にしてナメていたゆえ、やられます。サパタやビジャも、カランサやオブレゴンをナメていたゆえ殺される。現在のメキシコのマルコスは、既存政権をナメていないですね。いまだ、注意深く闘い続けている。
ーー吉本思想の「読み」が変わりつつあることの表れでもあったのかなと感じます。
山本 そうでしょうね。我々、学生時代に吉本思想にかぶれたというか、そこにしか本物はなかった、吉本さんや他の評論家たちの言説から多くを学んだ。江藤淳もそこに入りますが、我々は小林秀雄には疑いを持ち始めてきた世代です。橋川文三や磯田光一を学術ではなく、評論として読んでいた。大学教師たち専門バカの内容はひどいものでしたから。
古い存在からの吉本理解の仕方です。しかし、いまの若い人たちの軽薄さは、どこかの大学総長だった人の「表層宣言」の愚鈍さからの延長にあるものでしかない。そことは対峙しないと、「軽やかさ」にはならない。なんか、基礎というのは昔も今も変わらないんですけど、使い方というか活用の仕方は大きく違ってくるんでしょうね。でも、世界情勢の構造は、資本主義と社会主義とファシズムとが「円環する」、まさに吉本さんが指摘されたようになっているじゃないですか。でも、その円環がどうして起きるのか、どういう関係になるのかは、何ら明らかにされていませんね。
つまり、もう「吉本思想」だという括りを、私はやめたいですね。「吉本理論」「吉本言説」としてその客観化をさらに客観化しないとならないと思います。そのとき、思想的概念を理論概念へと転じていかねばならなくなります。私には、そういう新たな次元だとなります。いわゆる思想的表出を抜いて、私は考えますので、柱の骨組みを探し出しているようなもので、不透明さの力をそいでしまうので、味気ないんですが、そこを突き抜けないと理解と了解はなされないと思っています。
「円環する」のは、国家資本の下で同質の制度再生産(産業的生産様式)をなして社会(規範空間)を「事幻化」しているからです。
それぞれ、人によって違っていっていいと思います。「思想」という範疇に付着している無意識の概念は、どっかの宗教団体の「思想新聞」みたいに、信条・信仰の派生を内化しています、吉本信奉者ですね。それは、何事も生み出さない、自己慰安に使っているだけです。ここを私は強調するゆえ、反発されますが、理論生産は従属していたならなされない。何言われようが固有に創造していかねばならない。
学者たちが、もっと誠実に真剣に対応すべきですが、うすっぺたい書で、誤魔化し論述しているにすぎない。吉本言説をなめているからです。でも誠実に対応されていった、藤井貞和さん、三浦信孝さん、高橋順一さん、山﨑正純さん、などがおられます。ずっと抱えておられる三上治さんも、真に向かい合っておられる。
「現代思想」という言表も、もうやめた方がいいですね。理論転回として、言説転移として理論的に考えていかないと、ただ新しい人間批判の思想が出たんだで終わってしまうし、「構造」なんて、アルチュセールもフーコーにもない概念ですし、論者によってまったく違います。だから、マルクス主義思考のままのものがいまだに大手を振るって一般化してしまっています。その裏側にくっついているのが「実践」概念です、Praxis概念です。マルクスは、理論と実践の一致、など言っていない。Praktikなものに理論が対応せねばならないと言っている。廣松渉のフォイエルバッハ・テーゼの訳でさえ間違いですし、カントの実践理性批判も、praktischenであってPraxisではありません。闘争実践したことのない識者たちが、実践コンプレックスから、いまだpratique/Praktikを「実践」だなんてやっている始末。ここが変わらない限り、理論生産は行き詰まり、吉本言説の理解はなされ得ていかないといえます。pratiqueには論理logiqueがあるのです、emotionにもreasonはあるのです。reason pratiqueは「実践理性」ではありません。ブルデューのこの書の解説の出鱈目さが、一般に拡散している誤認です。普段の日常の思考がひっくり返っているままなのです。すると、主語=主体があるんだと、主語などない日本語までもが文法的に歪められ、命題形式のコプラなどないのに哲学思考がそれで仮構的に平然となされている始末です。
吉本言説は、述語制日本語によって論述された述語理論世界です。
日本語固有の思考・理論が形成されねばならない。その大きなコアになるのが「心的現象論・本論」なんですよ。「序説」はイントロです。「本論」には膨大な、未決の課題が潜んでいます。だから、粗雑な書なんではなく、たいへん深い高度で深淵な書なのです。それをわかってない全集の編集ワークだから、皆さんも不快や疑惑を感じたのです。基本本文はほとんど同じなのに、同一ではないと感じられてしまうのは、編集ワークがそうしているからです。
吉本言説の欧米語への翻訳は不可能ですが、意味作用伝達の訳は可能です。
いろんなファンダメンタルなことが、きちんとなされていないで、おしゃべりしている日本の文化情況です。
このインタビューだって、正直、不毛でしょ。こんなこといちいち言わねばならなくなっている。また、言って置かないと汚染が累積してしまう。
ーー山本さんは、理屈を述べているようで、実はとても実学的です。ビジネスに非常に役立ちます。しかし、経済世界の多くは既存思考のままで、現実変化を正しくというか実際世界に即してキャッチできていない思考になってしまっています。知識や真理は一つで、答えは一つだという、学校で訓練された考え方のままで、さらにそこに、言われなかったからしない、言われたならすると、他人任せです。この閉塞をどうしたなら脱していけるんでしょ?
ーー大学では、専門の枠を外れるな、と狭い限定をしていくのが緻密なことだとされます。教育学だからといって、イリイチだってブルデューだって、教育を対象にしているだけじゃない、現代世界を考えているわけで、そこへ触れていくと、指導教官から専門外のことはするなと禁止されます。つまり、子供や若者や、自分自身が直面している世界を考えるなという専門性など意味ないと思うんです。
ーー歯は、虫歯やホワイトニングや入れ歯だけの、歯だけの問題ではなく、身体全体のことであるし、身体の一部を取り出して専門だでは済まないことです。吉本さんは詩人ですが、言語や国家や心的なものなど、人類のことを考えています。医療は、医者が儲けるだけのことに多分になってしまってます。吉本さんは医療については論じていませんが、なぜでしょうね。教育については、山本さんと昔やってましたよね。
山本 生活者として、黙って通過すればいい、というのがありますが、批判理論が嫌いなんですよ、そこが、私との裂け目であったと思いますし、イリイチとは対話不可能になった根拠だと思いますが、媒介なしの対話は無理です。でも、50%を超えたなら反対のことが起きるという分水嶺点にはとても納得がいってましたね。私は、琴線に触れることはあえて避けてきましたが、本質論が非常に有効であって、そこから考えることをしていかないと、歴史的な負の疎外状態を脱せないからです。フーコーとの対話は、通訳がいい加減で、話がずれっぱなしになりましたが、互いに言いたいことは言っている。吉本もフーコーもわかってない人の通訳だからです。誰だとは、言わないでおきますが、いっぱい喋ったことの半分も訳してないなと、本人は感じていたと笑っておられました。
つまり、何が言いたいのかというと、現在世界の限界を、大学人知性は把握できていない、旧態のままの批判か上っ面の気の利いたお喋りがなされるだけで、大学分類化された専門性の麻痺の知性が、産業社会の社会エージェント=社会的人間の知性になっているからです。そこは、本質論を逃したなら、ただのマルクス主義的な客観主義批判になるだけです。本質論と歴史表象との関係は、我々がつかんでいかねばならない。本質論了解がない吉本理解は吉本言説にならないと思います。大学人と同じシニフィエだけで、吉本をわかったつもりになるだけです。
(つづく)