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わたしの庭/マナミ

マナミが住んでいるのは都心のマンションの4階だが、
そこには彼女だけが入れる庭がある。
 
マナミは調香師だ。
依頼主の本来の姿を表す、
あるいは行きたい場所やなりたい姿を指し示す香りをつくる。
 
マナミ自身、いつも香りを用いて理想の未来に印を付け、
それを叶えてきた。
仕事も、マンションも、男も、人間関係も。
 
夜が更けた。
昼に会ったクライアントのことを思い浮かべながら、
窓を開け、裸足のまま庭に出る。
 
昨日が満月だったので、月は明るい。
光が淡く、肌に届く。
少しの風、春の始まりの生命力に溢れる花やハーブ、緑の香り、ざわめき、
足裏で踏む濡れた草の感触。
花、樹々、水、土、風、星、月、太陽、音楽、すべての香りの材料がここにはある。
深く呼吸してこの瞬間の香りを味わう。
この時間が何よりの幸福をマナミにもたらす。
 
奥に進むと庭はやがて森になる。
森の奥には、昔斬り捨てた男や過去世で売れなかった画家をしていたときの怨念、
他人からの嫉妬なんかをそのまま捨て置いてある。
 
部屋でパートナーと慈しみ合っていると、
窓から、死んだ昔の男が悲しげな瞳でこちらを見ている視線に気付くことがある。
斬り捨てたはずだが、彼は庭で死に続けており、マナミがいない夜は庭を歩き回ったりもする。
パートナーもはじめの頃は、死んだ男の視線が気まずかったと見えて、
体を離そうとした。
けれどもマナミが「続けましょう」と言うと、彼は肚を決め、
気にするのを止めたようだった。
 
マナミとパートナーが愛し合えば愛し合うほど、
死んだ男の顔は悲しげになり、得も言われぬ、
そのときどきの香りを立ち昇らせる。
その香りがまたマナミたちを掻き立てる。
その香りが欲しくて、マナミは事前にいつも窓を薄く開ける。
 
クライアントの顔が一瞬、頭をよぎる。
彼女のためのあたらしい香りにひと匙足りなかったのは、この要素だ。
すべてに満足して窓の方を見ると、死んだ男はもういなかった。
死んでなお、マナミに香りを献上し続けることで男は死にながらよろこび、
死を生きているのだ。
 
香りを届けたらクライアントは喜び、
さらに友人や知人をマナミのところに連れてくることだろう。
そうしてまた名声と富がマナミのもとへ集まり、
含まれた微量の嫉妬は森に捨てておく。

この嫉妬もやがて発酵し、
馥郁たる香りを生み出すことを誰も知らないのだ。

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