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Yoshilog Live 31 - Human Rights 参加者の感想など

これは、2022年2月27日に実施した「Yoshilog Live 31 - Human Rights 」の参加者の感想などをまとめたものです。 

どれをもっと詳しく知りたいと思いましたか?

目次から複数回答可で選んでもらいました。

目次

回答

その他に次のような回答がありました。
●現在の諸外国における人権(アメリカ、EU諸国、アジア、アフリカなど地域別に)
●現在の世界の人権と、是正団体、是正方法など。
●やはり東洋の宗教には自然法の概念がなかったのでしょうか。少なくとも日本の神道や仏教ではそもそも「個」の概念自体ないような気がしますが、日本における人権意識の低さはそこに由来しているのでしょうか。
●人権と差別禁止法の関係性について

自由記入欄:感想、要望、質問など、その他なんでも。

自由記入欄1

自然権というのは初めて知りました。日本国憲法がそこもカバーしていることにも驚きました。印象に残ったのは18世紀~20世紀までの「人権」のカバー範囲の変遷です。自由権すらあやしい日本だと思うので、もう少し人権について掘り下げてみたいと思いました。ありがとうございました。 


自由記入欄2

人権とは自分にとって当たり前に保障されているものだと思っていたらそうではないという事を知りました。今までは何処か他人事だったのかもしれません。だから当たり前と感じていたんだなと。揺り戻しと戦いがあって今がある。現在の日本は揺り戻し期かもというヨシさんの言葉を聞いて腑に落ちました。それでもどうやったら自分達を守っていくためには良いのかと考えた時に選挙なのかなと思いましたが、それしか思い付かない自身は想像力が貧相だなと感じたり。やっぱりまとまらないですね。後日資料をもらったらもう一度おさらいします。 今日はありがとうございました。


自由記入欄3

 「人権とは一切の属性に関わらず皆持っており、場所や時間関係なく普遍的に適用可能」という言葉を聞いて、ハッとしました。当たり前のように聞こえても、それが社会の中で実現されているとはあまり思えません。日本で生活していると、性別やコミュニティの中での力関係、他には容姿や喋り方、立ち振る舞い方など様々な要素が複雑に絡み合って、その人の生きやすさ・権利の行使のしやすさが決まってくるというような感覚があります。そのため皆が平等に持っているはずの人権を自ら主張したくても、それが上記のような点から阻まれたりしていることが多々あるような気がします。人に対して何の先入観や偏見も持たず、まっさらな状態で互いの権利を認め合うことは難しいと思うし、それが課題のように感じました。 


自由記入欄4 

重複障害を持つジャーナリストで、す。貧困問題の報道・障害者運動・日本の社会保障政策研究(博士学位取得見込み)の三本柱で活動してます。 本日ライブを拝聴して、「貧困や生活保護の当事者、あるいは障害当事者に特化してのご講演会を企画できれば」と妄想してしまいました。 特に障害者運動は近年、人権を軽視したり、やりたい都合にあわせて歪曲する人々が増えてきています。昨年は国連文書の偽造企図までありました。 しかしながら、自らと日本と世界のために人権をきちんと理解したい障害者(貧困当事者も)は当然いますから、機会を提供できればと思います。 まずは自分の博論を片付けます。 


自由記入欄5 

今日もありがとうございました。とても勉強になりました。 自然権の考え方と、人権のカテゴリーについて理解できたのが非常に大きな収穫です。 そもそも人権とは何かということに対して、学校できちんとしたカリキュラムはありませんでした。 大阪の道徳の教科書「にんげん」は、滅菌された新興住宅地の子供には衝撃的でした。人権の基本的な考え方を学べたかは怪しいですが、それでもかなりの教育的インパクトを持っていたように思います。 自然権の考え方を緊急に日本人に広めないと、憲法の改悪に向けて状況が悪すぎて焦ります。 次回のライブもたのしみにしています。 


自由記入欄6 

人権についての人類史を、紀元前から現代までタイムトラベルして目の当たりにするような時間でした。 人類が現在の社会を築く過程で、どのような歴史的背景があってここまで来たのか、大まかに理解することができました。

現在の世界において、人権保障について問題を抱えていない国はおそらく存在しないと思いますが、日本の人権擁護局や文科省のHPを見る限り、少なくとも日本の政府には、人権について啓蒙したり保障したりする気があまり無いように感じられて暗い気持ちになりました。(お話の中であったように、どの国の政府も人権保障については消極的ということの表れかもしれませんが。)

今回のLIVEに参加する前は、日本の人権保障の状況と諸外国との差異について知りたいと考えていましたが、そのためにはまず日本の状況についてもっと深く理解する必要があると感じました。

人権についての歴史的背景を今回大まかに理解できたので、その上で日本国憲法を読み直し、理解を深めていこうと思います。 (第三章を読んだところ既に色々と疑問が出てきていますが、以前は考えが及ばなかった新たな視点を獲得できたためとポジティブに捉え、ひとつずつ理解していこうと思います。) ありがとうございました。 


自由記入欄7 

今回も有意義な時間をありがとうございました。 講座内容が私の求めていたものそのもので、とても勉強になりましたし、本当に興味深かったです。 特に、欧州ではフランス革命以降は普通に「人権」が扱われてきたものだと勝手に思い込んでいたので、きちんと取り扱われるようになったのはWW2以降という話は驚きでした。(考えてみれば、ナチズムに代表されるユダヤ人迫害は連綿と続いていたわけですし、米国での黒人奴隷の存在等を考慮しても「人権」という概念が広く使われるようになったのはごく最近というのは、納得です。)

また、日本の法務省の人権擁護局の「人権」の説明文があまりに情緒的で・・・。本当に日本って国は駄目だなぁ…。と痛感しました。 学校教育に携わっていた時期があったので、文科省の「人権教育」の方針がズレているのかと思っていしたが‥‥法務省からズレていたんですね…。呆れました。 「人権」=思いやりみたいな風潮をなんとかしたいと思っていますが、「国の方針がおかしい。国際水準からズレている。」という話から始めないといけないようなので、この国の人々が国際水準の「人権」を理解するにはまだまだ時間がかかりそうです。 今回も、とても勉強になる講義、ありがとうございました。 


自由記入欄8 

昨晩もありがとうございました。小学校で終了した人権の授業は部落問題だったというのは、私の地元の地域的なものかと思っていたのですが、そうではなかったようで、ヨシさんも含めて複数の人がそれに言及していたのが興味深かったです。振り返って見ると、同和地区、部落地区って何処にあるのかも分からないまま、そこの出自で虐げられている人たちがいるという問題に子供だった自分達が関心を寄せていたわけですが、他人事として当事者意識を持つことができない人権の学習題材だったと思います。自分がそこの出身ということならともかく、何も知らないままに人権イコール部落差別をしてはいけない、ということだけが残っている感じです。

昨日のヨシさんがまとめてくださった、古代から続く自然権としての人権。本当はとてもスケールの大きな話で、人類史と共に発展してきた概念なのに、その辺が全く日本の教育では触れられず、ミクロな同和問題を紹介することで終わっている日本。法務省のサイトには被差別となる属性のリストがありましたが、これら少数派のラインアップがあるものの、実際に法的対処は何もされていないから、構造としての差別が続くままだと感じます。次回も楽しみにしています。 


自由記入欄9 

現在の日本における「人権」は多分にマイノリティのためのもので、それも、保護というよりは「救済」的な側面が大きいように思われます。例えば人権擁護局のウェブサイトで言っているのは、属性で差別しないというよりは、属性を挙げて「これは差別の対象じゃありません」というお墨付きを与えるもののように見えます。そりゃー、いわゆるマジョリティの側からは「人権イコールうるさいこと」または「うるさい人達の主張」という理解になり、本音では違うけど表向きイヤイヤながらも認める、というような扱われ方になっていそうです。

さらに、日本の学校教育では人権教育=同和教育というみなされ方をしているケースも存在するわけだし。 そうではなくて、人権とは誰にでも普遍的であり誰もが尊重されるための当たり前の原則である、という理解を誰もが持つ社会であるべきで、学校教育でもそれを教える必要があるのですが、ここは残念ながら、日本人が自力で、人権を含む近代的概念を勝ち取ってこなかったことの結果のひとつではないかと思います。 

学生時代に履修した憲法学の教授のひとりは天皇の地位や戦争放棄の条項についてゴリゴリの改憲派でしたが「日本国憲法において最も優れているのは人権の尊重の原則である」と言われていたのを今でも覚えています。政治的には当然のように保守的な先生であったものの、近年の自民党の改憲案はそのような人権の原則を削除・縮小するものであることから、今ではゴリゴリの護憲派になられたようです。珍しい例ではないかと思いますが、これは専門家としての矜持がそうさせているのだろう、と想像しています。 大学教育では人権の成り立ちや理屈の部分をこういう先生にもっと教えてもらえるものであれば、と思います。

西洋的近代的概念が常に、民族や宗教、文化的背景を含めて人類に普遍的なものであるのかどうか、については、人権に限らず、続けていくべき問いなのかも知れないということは、今回のLiveで得た着目点のひとつです。人権や民主主義の概念を例えばどこかの途上国に持ち込んで都合のいい支配のレトリックにしてしまうのはアメリカがずっとやっていることだし、その対象となった国や地域の人々にとっては、お題目が違うだけで、やってることはやっぱり帝国主義に過ぎないじゃないか、ということにもなります。ただ、個人的にはそのような西洋的近代的概念に賛成であり、さらに、そういった概念が必ずしも西洋近代の専売特許ではないことも今回教わったことのひとつで、それならばざっくり、世界のあらゆる場所で適用可能な原則と仮定できそうです。 民族や文化の概念が薄れてなくなるぐらいになる未来よりは、そのような(今の時点での)近代の原則を当然のものとして誰もが進んで受け入れられるようになることの方が、時間的にはずっと早い未来ではないかと思いますので。 今回もありがとうございました。 


自由記入欄10 

The cyrus cyilinder とメソポタミアという言葉にとても胸あつくなりました。紀元前、古代の話から、いかに中2の時教科書の1ページでも 破っていれば、社会の体制に屈服することなく、歩むべき真理を古代からメソポタミアから 学べたのに。残念でなりません。騙されないで済むことは重要です。意見を言うことに積極的ではないしこれからもそうであるが、非体制という位置で啓蒙していく。 日本がどれくらい難しいのか、日本政府の滑稽 さ、中国、韓国から見れば出る杭なんでょう。 話にならない。何としてでも若い世代によって輝きをとりもどしてほしい。若い世代、目を覚まして世の中、世界を見てほしいのです。 


自由記入欄11 

今回も大変勉強になりました。ありがとうございました。 自由に過ごすクマコちゃんの気配に癒やされました。誰かの利益のために不自由を強いられるなんてまっぴらごめんですね。 


自由記入欄12 

今の"人権"とよばれるものができるまでの過程を知れてとても良かったです。 メソポタミア文明時代から世界のあちこちで人権の認識があったのは驚きました。 また自然法の「神、自然、理性によって与えられた固有の権利を持っている」というところがすっと理解出来ました。そこの認識がないと人権を理解しているとはいわないと思います。

そしてHuman Rightsとは何かの部分で、「国民は主人、国は使用人」という言葉を聞いて、これが自民・維新・公明党らと共産党等の大きな違いだと思いました。自民党らはこの反対で「国民は使用人、国は主人」だと思っていますから、そんな人達が憲法改正や核共有しようとしていて腹が立ちます。

今の日本人がきちんと人権教育を受けてたらどんなに良い世の中だったか考えるだけでよだれがたれます。日本で生きていておかしいことが山程あります。しかしそれを指摘する人はごく僅かです。今日のライブを聴いて改めて人権感覚が無いせいだと強く感じました。日本人皆んな今日のライブを聴いて、盲目する目を開かせたいです。 今日のライブもとても勉強になりました。 ありがとうございました! 


自由記入欄13 

学校で教えてもらえないこと、社会に出でもわかりやすい情報にアクセスしにくいトピックだったと思います。今日、それを勉強できたことをとてもうれしく思います。歴史の揺り返しがあったとしても、自然権という考え方が長い歴史を経て広まってきていること、希望に感じました。楽観視はできませんが、絶望しなくてよいこと、わかってよかったです。ありがとうございました。 


自由記入欄14 

日本では人権のことを学ぼうとしても、その環境も整っていないことに気づかされてびっくりしました。大日本帝国憲法で取り入れることの出来なかった制約なしの人権をやっと日本国憲法に入れられたと思ったら、また逆戻りしてしまうかも知れないなんて…。でも、私の周りの人は、自分には関係ないと思っている人が多い気がします。 


自由記入欄15 

今回も、短い時間で非常にわかりやすくご説明頂きありがとうございました。 前回は「戦争と人道」の講義を聞きました。本当にEye Openingでしたが、その際にお話しされていた、戦後日本の憲法制定とその後の政権の間のねじれの説明が特に心に残っていたので、今回の講義もとても楽しみにしておりました。

まず、日本国憲法がこんなに素晴らしいものであるとは気づいておらず、自分を恥ずかしく感じました。まさか憲法を読んで美しいと感じる日が来るなんて思ってもみませんでした。 大日本国憲法の憲法とも呼べない幼稚な醜悪さや、合衆国憲法の、たゆまぬ進歩と共に過去の醜悪も赤裸々に晒し、今日に至るまで身勝手な解釈を押し付け合う論争の種となってばかりの複雑怪奇さに比べ、なんと簡潔で完璧な文章だろうかと、心動かされました。 そして、こんな優れた憲法とその理想を、私も含め日本の国民がわがものとし世界と分かち合うことが全く出来ていないことが、日本だけでなく世界にとって、なんという損失であろうかと愕然とします。 特に、戦争の放棄について、人間の限界を超えた大それた夢物語ではあるかもしれませんが、それでもそれは全世界の憲法が目指さなければいけない究極の姿であるわけで、今世界でただ一つ戦争の放棄をきっぱりと宣言する憲法を持ち、かつ世界で唯一の被爆国である私達の国は、(せめてアメリカの保護のもとでぬくぬくとしていられた間に)もっともっとその憲法が目指す理想を体現し世界に示してゆくことが出来たはずでした。もしそのような国であったなら、まさに今日世界が瀕している危機においても、今までの数々の危機においても、力に訴えるしかない列強にはない影響力を持つことが出来たかもしれないのではないかと、夢物語ではあってもそう思わせてしまうほどの力がこの憲法にはあります。 でも日本のたどった道は、自らその憲法を踏み躙り嘲り笑うようなものですね。先ほども橋下がウクライナ支持・反戦のデモをする人々に対し「全く意味がない」などとほざいていましたが、民主主義の基本中の基本であるデモの意味すらわからないそのあまりの無知に唖然とするとともに、こうやって民主主義を破壊して回る人間が幅を利かせていることに本当に背筋が寒くなりました。自分が自分を辱め搾取し果てには殺してしまうことになることにも気づかずに。

結局のところ、日本だけでなく世界のどこでもそうですが、「問題」と言われるものは100%人権の問題なのだという、ものすごく単純なことに気づかされました。日本に存在する数々の異常な問題・・・Twitterで炎上案件になるような、ダンナが家事手伝わない、といったごくごく身近な問題から、児童の性的搾取(これも「ごくごく身近」であるところがおぞましいのですが)、外国人留学生の暴行殺人といったグロテスクな問題に至るまで、全て、日本人の人権理解の不在から来ているのではないかと考えており、これらの問題をどれほど議論しても絶対に理解出来ない層が存在しているのもこの不在が根本的な原因ではないかと思います。

今回講義して頂いた内容を日本人が理解するというのは、それこそやっと本当にNation Buildingを始めるための第一歩ではないかという気がしており、そのタスクの困難さを思うと一瞬で諦めたくなりますが、今世界がこんな状況である中、もうそれが生き残りのための唯一の道であると感じます。人権に対してかくも無知なまま憲法改正とは、自分が住む安全で快適で美しい家に汚物を撒き散らし壊して回った挙げ句の果てに火を放ち、その中で大喜びしながら死んでいくようなものですね。そんなことは絶対の絶対に阻止しなければなりませんね。

一点質問です。人権から少しピントが外れてしまうかもしれないのですが・・・先日のアフガニスタン撤兵の際、アフガニスタンの女性の権利を守るためにアメリカは介入を続けるべきだという意見と、たとえ女性の権利を侵害する政権であってもアフガニスタンの自治を尊重するべきだという意見で大きな議論がありました。(そもそも女性の権利を守るという名目の介入が、アフガニスタンの女性の大部分の権利を侵害するという結果になっていたわけで、議論の前にそこ確認しようよと個人的には感じていましたが・・・。) 人権という観点からは、この問題をどう捉えることが出来るのでしょうか。人権にも色々な種類がありますが、それらがお互いに矛盾するということはあり得るのでしょうか。 長くなり申し訳ありません。本当にありがとうございました。なお、ほんの少しだけ顔を出してくださった特別出演ゲストも最高でした。次回のご出演にも期待しています! 

自由記入欄16 

よしさん、今日もありがとうございました。human rightsは自分が人間として産まれて、1番の基になる背骨のような概念と思っていましたが、それを人は古くから気づき、ゆっくり少しずつ人類全体の権利として獲得してきた、ということがよくわかりました。 揺り戻し、という言葉が頭に残りました。新しい考え方が人々に馴染むのに、何度も後退を経験してきて、それが着実な歩みになると。でも、その揺り戻しの時代に生きるのは、その先を経験した後のことなので、痛みが強いように思います。どんな時代にどんな場所で生まれてくるかは選択できませんが、どんな状況であっても、現状を正しく理解するためには、先人の通ってきた道を叡智を正しく学び、それを現代に最大限生かし、それが未来に向かって有効か判断することが重要と思いました。そしてそれを次世代の子供達に余すことなく伝え、人類の蓄積をしっかり獲得した人間を育てていくべきと思いました。

今日のLiveの最初に、自然法の説明がありました。人間が創造した法の上をいく存在。概念。ギリシャ、ローマ、キリスト教やイスラム教の例がありましたが、日本においての古代や中世にそういう芽はあったのか、知りたいと思いました。日本は今も、封建的な考え方が多分に残っていて、人権ということも日本国憲法とは裏腹に十分な認識とは程遠いと思います。ですが、中世において、伝わったキリスト教を受け入れ、隠れキリシタンとなってまで、過酷な弾圧があっても、その信条を持ち続けた人々が少なくないことは、単にアジアにおいての自然法の存在がはっきり見られない、そのような概念は生まれる余地がなかったことにはならないと思ったのです。神道や仏教にそのような自然法の概念がなかったのか、考えてみたい、調べてみたいと思いました。 よしさん、お疲れ様でした。いつも貴重な学びをありがとうございます。 


自由記入欄17 

人権という言葉に対して大切だというイメージはあったけれど、よく考えたことは今までありませんでした。しかし、例えば日本国憲法に載っているように、人権とは人間として生きていく上で必要で、よく考えて生きていかなければならないものだということがわかりました。世の中には様々な法律や決まりがありますが、それらの正しさを考える時には、人権が守られているのかどうかがまず考えなければならないなと思いました。 


自由記入欄18 

その昔、中学3年の社会科で基本的人権について習った時に、「基本的人権の尊重という言葉を冗談のように使わないで下さい。この言葉はそんな軽い言葉ではないです。」と先生に言われて、当時は「?」という感じでしたが、人権の歴史を改めて学ぶと、なるほどという感じがしました。自然法と実定法についても大学で憲法の講義を受けた時には概念をイメージしづらく感じましたが本日漸く腑に落ちました。学びは時を超えて繋がり、世界を見る視力が増していきます。 


自由記入欄19 

人間より上の、自然や神や理性によって与えられたもの、という自然法からきていると知って、わぁー!と思いました。 自分の人権というものは自分の手の中に与えられているというよりも、力のある「人」に握られているものだとなぜかずっと感じて生きてきたけれど、夕べのライブを聴いて、日本の人権のあり方がそう感じる私を育てたらしいという残念さ。 学校ではよく教わらなかったし、日常で目にする文章や聞くことが、自然と私のような意識を植え付けたのだとしたら、人権を深く理解し教えたり伝えることのできる大人は日本には少ないのかもしれない。 人権を学ぶだけでも、おかしな人達に力を与えてしまっている私達一人一人の意識の低さを改めて考えさせられました。

よしさんのライブを聴くと、もっと知ってみたいことが次々と湧いてきてしまい、人生の残り時間がそれには十分に足らないなぁと思ってしまいます。 いくらでも学ぶことのできる若者達がうらやましい。彼らには、もっている力を上手に使いこなせる知識や知恵を身につけて欲しいと切に思います。 ちょっと的外れな感想になってしまったかもしれませんが、今回も貴重な時間をありがとうございました。

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