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5. 反則技/販促技

ここまでは、援助プロジェクトはマーケットの論理の前では無残にも逆効果でさえあるパターンを書いてきたが、この節では、うまく立ち回ってひとまずは成功するパターンを紹介する。

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5. 反則技/販促技

 まっとうなビジネスなどと言うのは簡単だが、それがいかに難しいことであるかは、ほぼまっとうな経済が動いている日本のような先進国でさえ、まっとうなビジネスに挑む人すべてが成功するわけではないのを見れば分かる。しかも、我々がビジネスの話をしているのは、紛争で経済が壊滅的打撃を受けていたり、破綻国家と呼ばれているような国での話だ。そんな国のマーケットにどんな商品を放り込んだところでほとんど吸収されない、という現実が立ちはだかる。そもそもマーケットと言えるほどのものがないではないか。

 発展途上国では、外国人(+現地のとてつもないお金持ち)用と現地の一般人用の2種類のマーケットが存在したりする。博物館や動物園の入場料まで外国人と現地の一般人とで差をつけていたりするところもある。GAA(German Agro Action)がターゲットにしたのは、外国人用マーケットであった。そこで売れる商品を誰もが簡単に見つけて生産できるわけではないだろう。GAAの家具製造はむしろ例外的成功例だと思った方がよい。それでも Income generationプロジェクトを実施したければ、結局、マーケットを作ってしまうしかない。

 国連機関や国際NGOは配給物資などを含めて援助プログラムに使う物資を大量に外国から調達する。そういうものは現地で調達するべきだ、なぜならそれで現地経済に少しでも貢献できるから、という一般論は存在するが、実際はそううまく行かない。必ずしも現地生産のものは質が悪いからというわけではない。生産能力があまりに小さい、もしくは存在しないというのが大きな理由だ。

 例えば、アフガニスタンには就学年齢の子どもが約300万人いる。そのほとんどはまともな文房具もノートもかばんも持っていなかった。彼ら全員に鉛筆を3本ずつ行き渡らせようとしても、900万本の鉛筆が必要になる。カブールの文房具屋に900万本の鉛筆を買いに行っても、あるわけがない。

 というわけで、数十万枚の毛布、数百万足の靴下、数十万枚のセーター、数千台のランドクルーザー等々、とてつもない量の物資を援助機関は外国から買って持ち込んでいる。つまり、援助の周りでは巨大なビジネスが動いているのだ。当の援助されるはずの国がその恩恵をまったく受けられないのはおかしいと抗議したところで、援助機関からは現地調達のために最大限の努力はしているが現地のマーケットには商品がないからしかたがないという返答が返ってくるだけだろう。

 しかし、ここに、ある日、配給物資に最適な毛布を毎月一万枚現地生産できますという人が現れたらどうなるだろう。援助機関としては、ほんとは外国で買いたいと思うところもあるかもしれないが、建前を貫くならば、それを大歓迎して購入するはずである。こうやって、現地には見えないところにあった援助機関調達品のマーケットを、少しだけでも現地に取り戻すことが可能となる。

~具体例:綿まみれのターバン~

 具体例をあげて説明しよう。まだ、タリバンが支配していた頃のアフガニスタンの話である。タリバン政府に「殉教者・難民帰還省(Ministry of Martyr and Repatriation 以下MMR)」という変わった名前の省があった。このMMRの仕事は、3つのカテゴリーの人々の生活を援助することであった。そのカテゴリーとは、(1)帰還してきた難民、(2)未亡人、(3)身体障害者、の3つである。この3つのカテゴリーを並べると唐突な感じがするが、彼・彼女らには共通点があった。それは皆、戦争の犠牲者だということであった。戦乱から逃れて難民になる、戦闘で夫を失う、そして負傷する。

 どの戦争でとか、誰のせいでとか、そういうことは問われない。20年の間には、侵攻してきたソ連軍の犠牲になった人もいるし、共産政権の粛清の犠牲者になった人もいるし、マスードや、ラバニや、ヘクマティヤールや、ドストム将軍たちの内戦時に犠牲になった人もいるし、もっと最近ではタリバンと反タリバン同盟の戦闘で犠牲になった人もいるだろう(2001年10月7日以降は、これに米同盟軍の犠牲になった人が加わる。現在もMMRは宗教警察同様存続している)。死んだら皆同じ。あまりに長い変転し続ける戦乱の間に犠牲者の数だけが着実に増加していったのだった。彼らを世話する役割を負ったのがMMRだった。

 私の所属する組織とMMRには、難民帰還という共通の仕事があり、業務上の話し合いのため、しばしば私はMMRを訪問していた。外務省や教育省が立派なコンクリートのビルを持っているのに、MMRは途方もない責任があるにも関わらず、ボロボロの一般民家を改造して使っていた。何度そのぼろいMMRに行ったか分からない。何十回どころではないだろう。きっと百回は超えていただろう。小石を積み上げて妄想の宮殿を作るような地道な仕事が必要だった。

 MMRの建物の門の前は、いつも青いブルカで身を包んだ女性たちの人だかりでふさがれていた。いつも百人くらいはいただろう。私が乗った車が来ると、彼女たちはいっせいに車の方向に向かってくる。口々に何かを訴え、明らかに怒りをぶつけてボンネットを叩き、少しでも車の窓が開いていたら何かを書いた紙切れをその隙間からねじ込もうとする。MMRの警備の人たちが懸命に彼女たちを追い払い、やっと私の車はMMRの敷地内に入ることができる。

 彼女たちはいったい何をしているのか? 彼女たちは全員未亡人だった。自分たちの苦境を訴えているのだ。しかし、アフガニスタン全土の未亡人を助ける経済力がMMRにあるわけがなかった。アフガニスタンには何万人か何十万人か分からないが膨大な数の未亡人がいたのだ。イスラムの同胞であるアラブ諸国が時々、小麦や豆を寄付してくれることがある。MMRはそれを未亡人たちに配給するが、あっという間になくなる。国際社会からの援助は嫌われ者のタリバンにはやってこない。

 未亡人たちの苦境も、それに応えられないMMRの職員たちの苦悩も見ていられないものだった。未亡人たちのブルカは薄汚れ、ほつれて破れている。ブルカからのぞく手や足はひび割れ、泥まみれになっている。ブルカの下に見える服もボロ布のように見える。今、彼女たちが一家の大黒柱で子どもを育てているのだろう。MMR職員の足も彼女たち同様に泥まみれになっていた。何もできない無力感に打ち勝とうとする顔は苦しく強張っている。両者に共通するのはずたずたに引き裂かれた尊厳だった。それでも生きていくという強い意志だけが彼・彼女たちを支えていたのだろうか。そういう極限状態の人の心理を理解するのは、ぬるま湯に浸かって鼻くそをほじくるようなボンクラな人生を送ってきた私には不可能だった。

 どうして、こんなに明らかに助けを必要としている人たちに世界のお金は回らないのか、と憤慨したところで、とりあえず何の助けにもならない。そんなこと言ってる暇があれば、援助機関で仕事してるお前がなんとかしろと言われるだろう。しかし、なんともはや官僚臭い言い草になるが、未亡人とういカテゴリーは私の所属する組織が援助する対象になっていなかったのだ。アホくさっ!と吐き捨てるのはよく分かる。私もそう思った。

 何を見ても平静を装うのが習慣になっていたが、MMRへの行き帰りに未亡人の人だかりを越える時はいつも気分が著しく滅入った。心臓が縮こまるような痛覚を耐えなければいけなかった。小心にも、こんなことを繰り返していたら、いつか気が狂ってしまうのではないだろうかと心配したものだ。誰にも助けられない膨大な数の未亡人の集団が存在する。そして、その影にはまた膨大な数の飢えて寒さに震える子どもたちが存在する。ほんとになんとかならないだろうか。

 結局、私は彼女たちを対象として援助プロジェクトを実施する決心をした。彼女たちの中には帰還難民である者もいた。そうでない者もいた。しかし、いったい誰が帰還難民で誰が帰還難民でないか、なんて分かるだろうか。あなたは帰還難民ですかときけば、それが援助の対象になるかどうかの分かれ目だと素早く察知して全員が帰還難民ですと答えるだろう。

 そこで、帰還難民の女性をターゲットにしたプロジェクトとして実施することにしたのだ。一応、同じ組織内でこの案をほのめかしてみたが、国際スタッフの間ではきょとんとして理解できないか、まったく関心を示さない、という反応が見られたぐらいで、反対はなかった(官僚組織的にはそれで十分だった)。しかし、アフガン人のスタッフは熱狂的に支持を表明した。何もしなくても誰にも咎められないことはしないという官僚組織の仕事のやり方に怒りを感じていないアフガン人など一人もいなかった。欧米のNGOには、同様の怒りをもって国連を去っていった若者たちがたくさん働いている。

 そこで、何をすれば、誇り高い彼女たちを傷つけず、彼女たちの生活の足しになるだろうかと考えあぐねた末、私はよりによって Income generationプロジェクトをすることにした。

 彼女たちは外へ仕事に出ることを許可されていなかった。つまり、革靴や革ジャンの製作所を作っても意味がない。たとえそんな許可があったとしても、彼女たちは家を空けて外へ出て行くのが難しい立場であった。彼女たちが家を出て行けば、小さな子どもたちは母親なしで家に置いておかれることになる。子育ても家事もしながら彼女たちが収入を得る方法を考えるとすれば、家でできる仕事ということになる。家で何かを生産し、その出来高に従って賃金が支払われたらよいのではないか。

 そこまでは簡単であった。問題は何を生産するかだ。何を作っても、カブールのマーケットの吸収力は微々たるものであったから、売れることは考えられなかった。未亡人が自宅でヨーロッパ調家具を作るのも不可能だ。そこで考えたのが、援助機関の調達物資であった。彼らに売り込めるものを作ればいいのだ。みんな友達だから買ってくれるかもしれない、買わなければ絶交すると言おう、と思ったわけではない。

 その頃、国際社会から見向きもされない国であったアフガニスタンの国連機関は皆、予算不足で悩んでいた。CNNが来ないとお金も来ないという冷たい現実の中で、CNNを通してのみ外側の世界をのぞく。まるで地球以外の他の惑星に住んでいるような気分で、死んでいく人たちを指をくわえて眺めているようなものであった。結局、そんなアフガニスタンは破格の安値でテロリスト集団に乗っ取られたと言ってよいだろう。

 緊急事態のために、各国連機関は毛布やテントや衣類などの援助物資のストックを蓄えていたが、毎年1回のペースで大きな地震が発生し、旱魃や戦況の変化にしたがって頻繁に国内避難民が発生する国では、常にストックは不足がちであった。そして、不足分を買い足そうとしても年度の途中で予算が足りなくなって嘆く国連機関は珍しくはなかった。我々は機関の間で援助物資の貸し借りをして予算不足をしのいでいた。もし、外国で調達するコストの十分の一のコストでそういう物資が調達できれば飛びつくだろうと私は考えた。

 これで、商売のターゲットは決まった。商品のリスト(ストック用援助物資)もある。そのリストに未亡人が家で作れるものがあれば、この Income generationプロジェクトは成立する。アフガン人の未亡人が自宅で作りやすいもの、こんなことを外国人が考えてもろくな結論が出てこないだろう。アフガン人のスタッフと小規模ジルガを開いて何がいいか議論した。結論は、ふとんであった。ふとんなら、綿と布と糸を渡せば、すぐ作れるということだった。強烈な寒波で死んでいく国内避難民が問題になっている頃だったから、ニーズは限りなく大きかった。

 我々は「帰還難民女性のためのふとん製造プロジェクト」ののろしを上げた。実施機関(Implementing Partner)はMMRである。つまり、私の組織が資金を提供し、MMRが実施するのだ。当時、タリバンの capacity-buildingになるようなプロジェクトの実施は慎むという了解が援助コミュニティの間で拘束力をもっていたのだが、このプロジェクトならそういう問題にひっかかることはなかった(この「了解」に関しては賛否両論があり大激論が続いていた。結局、決着がつくより先に問題が消滅してしまった)。我々が大量の綿と布と糸を購入し、MMRには現物支給した。タリバンの小役人たちは砕け散った尊厳のかけらをかき集めて、ターバンを綿まみれにして猛烈に働いた。

 未亡人たちがふとんの材料を受け取りに来るのは大変なので、MMRと私の組織のスタッフがチームを作って、トラックで彼女たちに配達した。そして、1週間後、できた製品を回収しに行くことにした。ふとん1枚あたりの賃金を一般のお店で調べて同じ賃金に設定した。大きさや重さの違うふとんができたら扱いにくいので仕様書を作って未亡人たちに説明した。最初は100人くらいの未亡人から始め、うまく行けば徐々に増やしていくことにした。

 1週間後、我々は危機に陥った。未亡人は全員が渡された材料を使い切ってしまっていた。1ヶ月くらいもつだろうと思っていたのだが、猛烈な勢いでふとんを作ったらしい。我々は賃金の支払いに走り回り、新しい綿と布と糸の仕入れに奔走し、タリバンの役人と私のスタッフは材料の供給が滞らないように配達に駆け回った。完成したふとんの枚数はあっという間に数千枚に達し、MMRの事務所はふとんだらけで行き場がなくなった。彼らはソ連が作った団地の一部屋を借りて、そこにふとんを保管した。

 出来上がったふとんは非常に出来栄えが良かった。「母さんが夜なべして編んでくれた手袋」の歌を思い出した。これがあの彼女たちが作ったふとんかと思うと涙が出そうになった。私は他の機関にこのふとんを売るのが惜しくなってきた。とりあえず、自分の組織のストックが満足できる量に達するまで、全部買うことにした。援助プロジェクトの予算で Income generationプロジェクトを実施し、調達の予算でその成果物を購入したのだ。今や、プロジェクト実施者が自らマーケットになったということだ。未亡人には収入が確保され、我々は外国で買うよりはるかに安く配給物資を手に入れることができた。やがて、この安い配給物資の恩恵は他の機関にも渡っていくことになる。

 とりあえず、このプロジェクトはうまく行ったと言える。しかし、とても限定的な意味でしかそうは言えない。援助機関が実施したこのプロジェクトが存続する限り、そして、援助機関が配給物資のストックを維持する必要が続くかぎり、このプロジェクトには持続可能性があるだろう。しかし、Income generationプロジェクトのsustainabilityは、そのプロジェクトが終了した時に測られなければならない。このプロジェクトが終了したら、材料を提供してくれる人がいないかぎり、未亡人たちはふとんを作ることはできない。

 結局、このプロジェクトの要点は労働の機会を提供したということである。女工哀史状態が発生するのを避けたこと、かつ彼女たちがお恵みではなく労働の対価としての収入が得られたこと、そして副産物として実施機関が安い調達品を手に入れたということ、この3点がこのプロジェクトの利点である。しかし、sustainability や self-reliance は達成していない。それはこのプロジェクトが結局、裸の経済活動に晒されることもなく、援助として完結しているからだ。

 前回、革靴と革ジャンの例で述べたように Income generationプロジェクトの難しさは、援助という領域の外に出て経済と接触するからだった。Sustainabilityや self-reliance というのは、援助プロジェクトが一般の経済活動に変貌した時に達成される。良い例がGAAの家具であった。今回のふとんの例は、擬似的なマーケットを援助の領域内に作ることによって、マーケットの正面突破を回避している点で、反則技と言えるかもしれない。

 ここで根本的な問題に少しだけ触れておくと、90年代半ばから、人道援助にsustainabilityや self-relianceのような理念、つまり開発型アプローチが導入されるようになってきたが、それは有効であり得るのかという問題である。有効であるならどういう条件で、有効でないならどういう条件で、という empiricalな吟味をせず、スローガンだけ導入するのは簡単なことだ。今や、プロジェクト・ドキュメントはスローガン、キャッチフレーズ、buzz word で満たされている。気分がいいのは書いている者だけで、何の役にも立たないだけならよいが、裨益者であるはずの人をよけい窮地に陥れることもあるのはすでに見てきたとおりである。

 思い出話に耽って思わず長くなってしまった。儲け話はまだ続く。次回は、恐怖のマイクロ・クレジットについて考えてみよう。

(2004年7月22日JMM配信)

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