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7. 人足寄場なLIFE

この回の元のタイトルは、LIFE(Labor-Intensive Fast Employment)でした。これを書いた当時、固定した呼び名がなかったプロジェクト・タイプですが、その後、Cash-For-Work と名で広まったタイプが、LIFEに一番近いようです。
このタイプのプロジェクトの発想は、江戸時代の人足寄場を作った発想に近いものがあります。note に載せるに当たって、それを使って日本語でピンと来るようにタイトルを少し変えました。

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7. 人足寄場なLIFE

 ここまで紛争直後の地域で実施するIncome generation プロジェクトの難しさについて述べてきたが、失敗プロジェクトの山を目の前にして徐々に形成されてきた紛争直後用 Income generationプロジェクトのコンセプトを最後に説明しよう。

 私はそれをLIFE(Labor-Intensive Fast Employment )プロジェクトと名づけて普及を図ろうとしてきたが、この名称自体は全然広まらなかった。いろんな人がいろんな名称をつけているので特に決まった呼び名があるわけではない。

 LIFEの内容は非常にシンプルなものだ。紛争直後の地域では通常の経済活動が著しく停滞していること、そこでのIncome generation プロジェクトは「援助プロジェクトについての覚書」(1)から(4)までに述べてきたように様々な問題があること、そしてたとえそれが軌道に乗ったとしても実際に収入が発生するまでには時間がかかるということ、にもかかわらず大量の失業者が発生しているということなどを考慮して、LIFEではプロジェクトの目的を「素早く現金が人々の手に入る」機会を提供するということに絞る。

 そんなことは当たり前の話ではないか、今さら何を言ってるのだ、とほとんどの読者は思うだろう。健全な反応だと思う。ところが、開発援助の影響を受けて人道援助の現場で持続性だとか自立だとか参加型だとか様々なコンセプトをいじくり回すのが習慣になっていると、そんな単純なことは言い出せなくなるのかもしれない。それでも効果のないプロジェクトという歴然とした事実の蓄積の前では考え直さざるを得ず、ようやくそんな単純なプロジェクトを実施する勇気を出す国連機関やNGOも出てきたというのが現状だろう。

 LIFEの基本コンセプトは、できるだけ簡単な、未熟練労働で済むような仕事を作り、それをできるだけ簡単な手続きでなるべく多くの人々に行き渡るように分配し、給与は即日支払う、というものである。

 例えば、街角に大量に積み上げられたゴミの山を処理する、爆撃で崩壊した建物の瓦礫を片付ける、ゴミや瓦礫でつまったドブを掃除する、あるいは爆撃で穴ぼこだらけになった道を簡単に土で埋めていくなど、仕事の内容はなんでもよい。そんな仕事は紛争直後の街には無数といってよいほどあるはずだ。あくまでも応急処置であり、持続性などはもちろんない。仕事の質を問うてもしょうがない。目的は「素早く現金が人々の手に入る」機会を提供することである。

 裨益者、つまりこの仕事に従事する人の選定もそれほど時間をかけない。もっとも緊急にするなら街角で毎日アトランダムに選んでもよい。今日選ばれなかった人は明日選ばれるように配慮すればよい。もう少し落ち着いていたら、村の寄合や町内会のような組織を利用してシステマティックに裨益者を選ぶことも可能だろう。あるいはもっと良い方法が地元の人のアイデアで浮かぶかもしれない。

 仕事を発見し、人を集め、作業を監督し、賃金を払うという一連のプロセスもなるべく地元の人がやる方がスムーズに行くだろう。戦闘でむちゃくちゃになった街をきれいにしたい、直したいという強い動機を持っているのは地元の人たちであるから、彼らが一番必要とする仕事を発見するであろう。そもそも外部から人が入ってきて金を払うから壊れた街の掃除をしろというのは誰にとっても感じ悪いものだ。

 もちろんこの世には悪代官のような人もいるし、不正が発生しないように実施機関はモニターしなければいけないが、100%不正のない国はない。数%の不正のためにプロジェクトをストップさせると、多くの裨益者にとって不利益になってしまう。損失金として計上して、ある程度の損失を切捨ててでもプロジェクトを継続する方がよいと判断できるようなケースも多いだろう。厳格なドナーならそうは行かないから、プロジェクトの目的と性質を予め説明して理解してもらっておいた方がよい。そんなプロジェクトには、お金を出したくないというドナーもいる。それはドナーの自由だ。

 ついでに書いておくが、人集めにしろ、作業監督にしろ、賃金支払いにしろ、地元の人にまかすと不正が発生するから、すべて外国人が厳格に監視するべきだと主張するような、地元の人に強い不信感を持っている人がいる。

 不正が発生する可能性は否定しないが、このような強い不信感を持っている人は、外国人が介入してくること自体が不正の動機付けになっているという側面もあることを見落としている。

 どうせ金持ちの外国人が人助けかなんだか知らないがいい気になってえらそうにやってきやがって、ちょっとくらいごまかしても彼らの懐が痛むわけじゃないし、というように考える人がいても全然不思議ではない。

 実際、どうしようもなく鼻持ちならない人だって「援助」にやってくるし、だいたい「おまえたちは信用できない」なんて強く信じていれば、隠したってそれは顔や態度に出るものだ。地元の人たちの間では、元々みんなお互いに知っているのだから助け合うとか、知っている人の中で悪いことをすれば恥とか、地元の人たちの間でのみ通用する理由によって不正に対する歯止めもある程度効いているものだ。もちろんそれが機能しない時もある。

 それに加えて、外国からやってきた援助機関の人間と地元の人の間の関係というのも不正の発生率に影響する。自分を信用している人を騙すよりも、自分を信用していない人を騙す方が心理的にははるかに容易であるだろう。

 つまり、援助にのこのこやってきた外国人と地元の人たちの間の信頼関係が強ければ強いほど不正の可能性は低くなると一応は言える。しかし、あまりに多様なケースがあり得るので、こういうことに関して一般論を言うのは非常に難しい。そんなことも考える必要があるということに留めておく。

 こうやって現金を手にした人が増えていくと彼らが使うお金がまた他の人の手に渡り、徐々に、ほんとに徐々にだが、重症患者のような紛争直後の経済に基礎体力をつけていくことに貢献する。理想的にはこのようなプロジェクトをできるだけ広範囲に、できるだけ多数の人を巻き込み、しかも一回だけでなく、ある程度の期間継続することができればよいだろう。その国の崩壊した経済に血液を注入するような役割だと考えればよいのではないだろうか。

 日本で考えるなら、景気刺激策としての公共事業を思い浮かべたら分かりやすいかもしれない。事業の内容が必要かどうかというよりも事業をすることによってお金が使われるということの方に意味があるのだろう。どうして緊急でもたいして必要でもない仕事に国民の税金を使うのだというもっともな批判には、ちゃんと回答すればよいと思うが、どこかにお金が落ちることによって、それが回りまわって国全体の景気がよくなり、国民も得をするのだというような説明を政府は国民が分かるようにしていないし、特定企業だけが不正に公共事業を受注しているとか、そんなバカバカしい話でそもそもの趣旨どころではなくて、国民の側はもう何がなんだか分からなくなっているというのが現状ではないだろうか。

 そんなことにならないように、援助プロジェクトの場合は、ドナーにお金を出してもらう際に何を目的にどのような活動を実施しようとしているかを説明するのは重要なことだと思う。一国の中では、政府が国民の税金を預かり、そのお金を使って国民に託された仕事をするわけだから、国民がすべての仕事の主(あるじ)であり、政府はその使用人であるのだが、国際協力という仕事の場では国際機関とドナー国の関係がちょうど政府と国民の関係に相当する。つまり、国際機関が各ドナー国の拠出金を預かり、そのお金をつかってドナー国に託された仕事をする。ドナー国が主であり、国際機関がその使用人という関係になる。

 一国の中である特定個人の意見が政府の行動を支配すればそれば不正であると見なされるように、ある特定国家の意見が国際機関の行動を支配するのも不正なことだと見なされる。もちろん現状は理想的な状態とは程遠いわけだから、そこに国連機関に対する不平・不満・批判・罵倒・蔑視が広がるのも故なきことではない。

 但し、日本と国連の場合はむしろ逆の問題があるかもしれない。経済大国であるとかどうとか、拠出金をたくさん出そうが出すまいが、そんなこととは関係なく、ドナー国の一つとして国際機関の行動の決定過程に参加できるし、そうするべきだが、現状は個別の善戦や奮闘の存在を決して否定しないが、全般的に見てお客さん扱いであるのは明白だ。これには国内事情に見られるようなメンタリティが反映しているのかもしれない。

 ほんとは国民が主人であるのだが、日本における政府と国民の関係はどう見ても主客転倒しているように、我々国民には政府のオーナーという意識がよくて希薄か、もしくは皆無だ。同様に、国際機関との関係においては政府にも国民にも国連機関のオーナーという意識があるようには見えない。神話化するか見下すか、卑下するか横柄になるか、というような両極端の対応をする傾向がある。自分が主である、オーナーであるという意識があれば、そのような態度は出てこないだろう。

 援助機関が目的や活動内容をドナーに説明するのは重要だというものの、そもそもコミュニケーションは発信する側と受信する側が文脈を共有していなければとてもうまく行かない、というよりたぶん不可能だ。「会話」することがコミュニケーションが成立していることの証明にはならない。文脈から引き離され孤立した言葉は、無意味な単なる音に限りなく近い。ところが各国ドナーは国内文脈の中で仕事をしており、国際機関はいかなる国の国内文脈からも逃れようとする。国連機関やNGOがどんなに一所懸命、援助の目的や活動内容をドナー政府に説明したところで、馬の耳に念仏ってこともあり得る。

 しかも、コンピュータの話を全然コンピュータを知らない人にしても訳が分からないように、どんな話でも理解するためには受信者側の知識が前提になる。国内文脈の中では援助プロジェクトの知識は不必要だろうから、ドナーにそんな知識を期待してもむなしい。実際、援助機関の話をすっと理解できる人がアメリカやイギリスの政府にはいるが、むしろそれは例外である。例えば、まったく理由は分からないがとにかくマイクロ・クレジットをやれという要求をしてきたりする。「今の状況ではそれはあまり有効ではありません。3年後くらいにはマイクロ・クレジットが必要な状況になってるかもしれませんね」なんて答えようものなら、突然怒り出す人もいる。

 その一方で、やたらジャーゴンや Buzz wordを連発してドナーを煙に巻いてとりあえず金さえ出ればいいというような態度の援助機関の人もいるが、これはあまりに無責任だろう。ドナーの側に聞く気がなければしょうがないが、もしそうでないなら、クソ忙しいのは分かるが腰をすえて文脈の共有と知識の伝播に努めるべきであろう。一人ずつでもそんな人がドナーの中に増えることが長期的には援助活動全体にとって役に立つはずなのだから。

 さて、LIFEの問題はこのようなプロジェクトは、ドナーにはあまり好かれないということだ。なぜなら、後に目に見えるものが何も残らないからだ。あるドナー国がこのようなプロジェクトに1億円出したとしても、あっという間になくなり後には何も残らない。しかし、例えば、その1億円を学校の建設に使えば、そのドナー国の貢献を宣伝表示する看板と共に、立派な建物が残り、うまく行けば視察に来たその国の政治家が看板と学校(たとえ生徒も教師もいなくても)を背景にした写真を新聞が載せてくれるかもしれない。これで政治家の覚えもめでたく、役人は一仕事した気分になれるだろう。ところがあの1億円はどうしたと政治家に訊かれて、ドブに捨てました、ではなくてドブを掃除しましたでは格好がつかないだろう。

 日本の援助は学校のようなハコモノばかりにお金を出すというのが典型的批判の一つだが、アフガニスタンでは実は日本政府はこのようなプロジェクトに数億円のお金を紛争直後の最も初期段階に(つまり、もっとも必要な時に)投入しているのだ。これに刺激されたのか、EUとアメリカもその後ずいぶん遅れて同様のプロジェクトにお金を出し始めた。これは実施機関の担当者と日本政府側の担当者のコミュニケーションがうまく行った例だろう。

 しかし、せっかく日本政府が、もっと格好がついて世間に説明するのも簡単なプロジェクトではなく、地味で目立たないが必要なプロジェクトに果敢にお金をつけたのに、日本ではまったく知られていないだろうと思う。つまり、ドブ掃除のような地味な仕事に目もくれないのは政治家というより、メディアなのだ。こんなことが続くと役人はやっぱりハコモノじゃないとダメだと判断するかもしれない。別に日本政府に媚を売るためにこんなことを書いているのではない。メディアがバカだと援助機関も困るということだ。

 この種のプロジェクトにもう一つ問題があるとすれば、それはこのプロジェクトが人を集める磁石のような効果を持っていることである。普通、援助機関は首都など都市部に本部を置き、地方に支部を置くので、紛争後の援助では首都などの都市部と地方の村落部では援助の到達に時差が発生してしまう。援助が届くまで持ちこたえられなければ地方の村落部から人が都市部に流入してくるだろう。援助の直接の裨益者にならなくても都市部に行けばとりあえず何かいいコトがあるかもしれない。外国からお金持ちの援助関係者やメディアが大勢やってきて外貨を大量に落としているのである。

 そこにLIFEのようなプロジェクトが実施されているというニュースが地方に届けば、自分たちも参加しようとして周辺の村落部から人が集まってきても不思議はない。援助プロジェクトはそのような人口増加には追いつけないだろう。いや、追いつくほど都市部で援助プロジェクトが実施されれば、それはまた急激な都市の人口増加を引き起こすということであるから、援助が新たな問題を引き起こしたことになる。

 カブールには2001年10月7日の対テロ戦争による攻撃以前はスラムが存在しなかったが、今はあちらこちらにポツン、ポツンとスラム化した地域が形成されている。周辺の誰にも期待を抱かせないような貧乏な都市にはスラムは発生しないだろう。スラムが発生するのはその都市にお金が回り始めた証拠である。但し、それでも周辺部からの新参者に行き渡るような富の再分配のシステムがないのでスラムが発生する。

 LIFEだけが人を集める磁石のような効果を持っているわけではなくて、援助は一般にそのような効果を持っていると言えるが、LIFEはその即効性という目的を達成するためにより強力な磁石として機能してしまう。この磁石効果を緩和するためには、各地にまんべんなくLIFEのようなプロジェクトやその他の援助プロジェクトを実施してそれぞれの磁石の力を相殺するしかない。

 アフガニスタンではそういう計算の下に国連機関の間でLIFE型のプロジェクトを都市部で行う機関、村落部で初期援助を行う機関、緊急農業援助を行う機関などと予め急激な都市化の予防を念頭において役割分担をしたのだが、機能しなかった。

 第一の原因は国連機関の間でその実働部隊の展開のスピードがあまりに異なるということだ。事務所を開き、人を配置し、物資や車を持ち込み、組織として機能するまでの時間があまりに違うのだ。何もなくても初日から活動するように訓練されている組織もあれば、半年経ってもまだプロジェクト・ドキュメントを書いている組織もある。これでは磁石をばらまくために役割分担した意味がなくなるのは当然だ。

 第二の問題は、そのような国連機関の援助が援助のすべてではないということだ。NGOや先進国の政府系援助機関も援助を実施している。国連が援助コミュニティ全体で調整し役割を分担しようと呼びかけても、彼らにそれに従う義務はない。その意義に賛同して援助コミュニティ全体の調整活動に参加するNGOや政府系援助機関も多いが、そうでないところも少なくない。つまり、ある地域に磁石が集中しても誰にもコントロールできないということだ。

 第三の問題は、メディアだ。田舎で頑張ったところでメディアがカバーしてくれないとお金も集まらないと考える援助機関も少なくない。その結果、メディアが取り上げてくれそうなところには過剰に援助が届いてしまう傾向が出てくる。メディアは都市部にたむろしているので、都市部に援助が集中し、その結果、人が流入してくることになる。

 第四の問題はセキュリティだ。アフガニスタンには国際治安支援部隊(ISAF)という多国籍軍が展開しているが、これはカブールの外には出ない。カブールの外でセキュリティを保障する現実的な力はそれぞれの地域を支配する軍閥である。安全かどうかは彼らの状況しだいということになる。軍閥が安定的な支配を続けているところもあれば、そうでないところもある。アメリカ軍との戦闘が続いているところもあれば、そうでないところもある。結局、援助機関の活動範囲はセキュリティの状況によって限られることになる。

 結局、アフガニスタンではLIFEの問題どころか援助一般の問題として、カブールに巨大な磁石が設置されたことになる。その結果、どの程度信頼できる数字かどうか分からないが、2001年10月7日の戦前のカブールの人口は50万程度だったのが、現在は200万から250万と推定されている。

 LIFE型プロジェクトは、その即効性と磁石効果という特質、援助の対象である国・地域の状況、及び実施のタイミング・期間の三つを慎重に考慮して適切に使われれば、紛争直後のコミュニティに緊急に必要な現金を最小限の不快さで注入することができ、本格的な援助活動が始まるまでの時間稼ぎとして機能し、かつ経済の最も初期の立ち上げにも貢献する可能性があるが、不適切に使われれば、都市化を加速し、スラムを発生させ、治安を悪化させてしまう可能性もある。LIFEはシンプルだが、人生にはシンプルなことなど一つもない。

(2004年8月17日JMM配信)

このシリーズはこれで終わりです。完

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