4. まっとうなビジネス
援助システムにおいて、難民は一つのカテゴリーであるが、全てではない。難民と同じように自分の住んでいた場所から、逃げ出さざるを得なくなったが、国境を越えることはなかった人もたくさんいる。彼らは国内避難民(IDPs)と呼ばれ、国境を越えることが難民の条件の一つなので、難民条約の対象にはならない。
自分の住んでいる場所から逃げ出さなくても、治安も経済も崩壊した国で、援助を必要としている人たちもいる。この回はそのような人たちを対象としたプロジェクトについて考えている。
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4. まっとうなビジネス
前回は、Income generation プロジェクトが直面する問題を、難民対象のプロジェクト例を挙げて記述したが、同様の問題は国内の一部で武力紛争が継続中の国や、あるいは紛争直後の国においても生じる。つまり、難民を受け入れる国(country of asylum)の難民のように、難民をうみだす国( country of origin)においても、最も弱い立場にいる人たちは、自国の労働マーケットからしばしば閉め出されている。
援助プロジェクトの裨益者を選択する際、そこで最も弱い立場にいるグループ(vulnerable group)を優先するのが普通である。一般的には、部族、民族、宗教、性別、政治的立場、年齢、健康状態、居住形態などが決定要因になる。しかし、だからといって、誰が最も弱い立場にいるかというのは一般的に決まっているわけではない。それは、その時々の事情、歴史、文化、政治などで異なるものであるから、これは援助機関の内部でも、援助コミュニティ全体でもしばしば大議論の的になる。頑なに(普遍的に?)女性が弱いと信じている人と、その国の特殊事情(例えば、民兵組織への強制徴用)により、男性が弱いと主張する人とが強硬に対立して、にっちもさっちも行かなくなったりする。しかも、これは結局、予算配分の問題であるから、皆なかなか折れようとしない。
予算配分の問題であるというのは、二重の意味がある。第一に、裨益者としてどういう人々に援助資金が届くかという問題、第二に、どのような仕事をしている人により大きな予算配分がされるかという問題。後者は、援助する側内部の権力闘争のように見える場合もあるだろう。弱い立場の人たちの弱さに序列をつけるという現実的及び倫理的困難さに悩むというよりも、援助する人たちが自分の専門とする分野への予算配分を増やすために戦っているとすれば、そんな「援助」に幻滅したくなる人は少なくないだろう。しかし、これも現実の一側面である。但し、それはあくまでも一側面に過ぎない。
そのような弱い立場の人々(vulnerable group)は、紛争中の国であれ、紛争から立ち直ろうとしている国であれ、弱った経済の中でもっとも最後に職が回ってくるグループと考えて間違いないだろう。つまり、実質的には労働マーケットから排除されている状態が経済全体の回復が始まるまでは続くと考えられる。つまり、彼らを対象としたIncome generationプロジェクトも、難民を対象としたIncome generationプロジェクトが抱える困難さと同様のものを持っているということである。
それでは、上記のような紛争の舞台となった(なっている)国であれ、難民が避難している国であれ、そのような国では Income generationプロジェクトというのは実施するべきではないのだろうか。そうではない。奴隷労働のようなことにならず、かつ持続可能性があり(sustainability )、裨益者の自立(self-reliance)を促進するようなIncome generationプロジェクトの例も現実に存在する。
一つは、本気でビジネスをする気でプロジェクトのデザインを考え、実施しているケースがある。このようなプロジェクトは、援助プロジェクトだからと言ってマーケットは特別扱いしてくれるわけではない、という認識を持って取り組んでいる。
そのようなプロジェクトの要点をいくつかあげると次のようになる。(1)まず、難民や紛争の犠牲者がマーケットで競争するに足る製品を生産する技術を身につけるトレーニングを高度なプロの技術者が提供する( capacity-building)、(2)製品の品質管理を厳格にし、マーケットにおける他社製品に負けないようにする、(3)技術者だけでなく、例えば経営者予備軍としての訓練も彼らに施す、(4)マーケットの調査をし、製品の企画に力を入れる、(5)マーケットの大きさを考え、製品を選ぶ、(6)裨益者への賃金は同種の製品を生産する一般企業と遜色のない程度に設定する。つまり、労使関係における弱さにつけこまないのはもちろん、そのプロジェクト全体が新しくマーケットに参入する新規企業として競争していけるくらいに鍛え上げる。
アフガニスタンで有名な成功例を一つ挙げると、German Agro ActionというドイツのNGOがある。彼らは9・11事件よりずっと以前にカブールに家具製造のIncome generationプロジェクトを始めた。ドイツからプロの技術者を招き、アフガン人に徹底的に家具製造の技術を教え込んだ。この段階ですでにのんびりと大工仕事を楽しむ他のプロジェクトと差がついていた。そして、製品のターゲットを購買力のある外国人に需要がある事務用机・椅子・キャビネット及びベッド・応接セットに置いた(そんなもの、生きるか死ぬかって時に、ほとんどの一般アフガン人は必要としない)。そして、それらはすべて同じモチーフで一貫しており、白木を使い、この地方としては革命的なほどシンプルなデザインを採用した。品質管理を厳しく行い、当たり外れのないクオリティを維持することにも成功した。
アフガニスタンでも現地製造の家具は手に入るが、骨董的価値があるものは別として、同時代の製品は耐久性がないことと、凝ったデザインが飽きやすいことから、GAAの頑丈でシンプルな家具の登場は外国人にとっては一つの事件であった。国連機関や国際NGOは例外なく、と言ってよいほどGAAの家具を買い、そのため同業他社の家具よりかなり高めに設定された価格でも十分に競争できた。GAAは購買力のある外国人コミュニティを最初からターゲットにしていたのだ。
しかし、アフガニスタン内の外国人コミュニティはその当時は非常に小さかった。すべての外国人がGAAの家具を買ったとしても、飽和状態になるのは時間の問題であった。
当時、すべての国連機関及びほとんどの国際NGOが隣国のパキスタンに現地本部を置いていた。それに加えて、パキスタンにはパキスタン・プログラム用の国連機関及び国際NGOの事務所もたくさんあり、かつアフガニスタンと違って各国大使館も開かれていた。つまり、パキスタンには、アフガニスタンよりはるかに大きい外国人マーケットがあったのだ。おそらく、GAAは初めからパキスタンのマーケットも念頭に置いていたのだろう。彼らはパキスタンまで家具を配達することを請け負った。
その当時は、パキスタンからアフガニスタンへ出張することによって多くの援助機関の仕事は成り立っていたから、パキスタン在住者がGAAの家具を発見することは容易であった。そして、パキスタンのマーケットでもGAAのような丈夫でモダン、もしくはヨーロッパ的と見える白木のシンプルな家具を製造しているところはなかったので、GAAの家具はパキスタン内の外国人コミュニティでもたちまち評判になり、GAAの家具は注文しても数ヶ月待ちという状態が続くことになった。
そのうちに手に職をつけたアフガン人たちの中には、GAAのプロジェクトから独立し、自分の家具屋を開くものが出てきた。生産するのはもちろんGAAと同じ家具である。そもそも、これは援助プロジェクトとして始まったものであるから、GAAがそれを違法コピー商品だと騒ぐわけもない。まさに自立( self-reliance)が目に見え始めたのだからGAAは喜んだであろう。
そして、9・11があり、米同盟軍の攻撃があり、その後世界中から大挙して外国人がアフガニスタンにやってきた。アフガニスタンにおける外国人コミュニティは数百倍に拡大したと思われる。国連機関の事務所や宿舎は拡大され、新しい国際NGOが次々にオフィスを開き、大使館も次々にオープンし、GAAの家具の需要も爆発的に増大した。しかし、これはオマケと言ってよいだろう。GAAの家具製造は9・11がなくても、すでに成功したIncome generationプロジェクトであったのだ。
GAAの Income generationプロジェクトの成功の鍵は、一言で言えば、プロジェクトで選んだ仕事(家具製造)にまっとうなビジネスとして取り組んだ、ということになるだろう。そこでドイツ人の高い技術や、堅実な経営姿勢が有効に生かされている。このようなケースでは「援助のため」に外国からわざわざやってきたということが、現地の人にも理解され、評価されるだろう。これはセキュリティという面でも外国人にとっては非常に重要なことである(エイド・ワーカーのセキュリティについては別稿で論じるつもりである)。
2004年7月20日JMM配信
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