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「書く」仕事

 その日、私は新大阪駅の人ごみの中で立ち尽くしてしまった。
 下の娘が幼稚園に入園したのを機に、またコピーライターの仕事に復帰しようと、あれこれ模索し、新聞の求人で見つけた会社を初めて訪問する時のことだ。

 それまでも出産前まで勤務していたデザイン会社から仕事の依頼があれば、子育ての傍ら少しずつこなしてはいたのだが、その日はフリーランスとして意気揚々と再スタートする晴れ晴れしい日だった。たとえ数時間でもビジネス社会に復帰するのだと、ファッションもほんの少しだがオフィスレディ風にコーディネイトして颯爽と家を出た。
 打ち合わせ用の手帳にペンケース、多少の作品、電車で読む文庫本も揃えて、準備万端。しかし、近所の友人に娘を預かってもらうのにもたもたして、慌てたせいかカバンを間違えてしまったのだ。

 会社のある新大阪駅に到着し、スーツ姿のビジネスマンが急ぎ足で行き交う空間に澄まして降り立った瞬間、初めて気がついた。無意識に用意し、手にしていたのは布製の巾着袋だったのである。
「私は何を持ってんの? こんな巾着じゃあ、原稿もしわくちゃになってしまう。第一、これってオムツ入れやん!」
 2人の娘の子育てを始めて7年。どっぷり育児空間にはまり込んでしまっていた自分が見えた気がして、スタートから落ち込んでしまった。人はどんな生活をしていても、アンテナの張り方次第でどうにでもなるものとイキガっていた私。タガが緩んで、それなりの暮らしに慣れてしまうと、知らず知らずのうちに、その枠で落ち着いてしまうのだ。ただ、ありがたいことに仕事は決まった。 

 振り返れば、「書く」仕事を求め社会人としてスタートした時も、初っぱなからくねくね道。人生でパートナーとして絶対共に歩みたくないと思われる3人の男たちに出会った。
 短大を卒業して入社したのは、小さな業界新聞社。団塊世代の直後にあたる私たちの世代は、まだ学生運動のほとぼりが冷め切らず、短大2年の半分ほどが休学で、就活などないに等しい状態だった。
 米英語学科ということもあって、周りの多くは英語を活かした就職先を探していたが、学生運動の余波が強く危険視されていた新聞部に属していた私は、何の技術もコネもないのに気持ちだけがマスコミ志望。数少ない募集要項からやっと見つけたのがその業界新聞社だった。
 新聞社は相当年季の入ったビルの3階にあった。その年の新入社員は、女性2人だけ。大卒の女性が記者で、短大卒の私は整理などの内勤となった。男性記者が4~5人、カメラマン1人、整理の女性1人という小さな新聞社で穏やかな人ばかりだった。        
 その中にもう定年間近いロマンスグレーの男性がいた。温かい笑顔にたっぷりのユーモアセンスをもつ紳士で、若い頃はきっと女性にもてただろうと思われる端正な横顔の持主だった。かつては大手新聞社で活躍した人だとも、先輩にこぼれ聞いていた。
 入社して初めて迎えた給料日。事務所のドアを静かにたたく人がいた。
「ごめんください。いつもお世話になっております」
 手慣れた感じでドアを開け、もの静かに事務所に入ってきた中年の女性は、笑顔をつくることもなく深々と頭を下げた。 
「ああ、いつも御苦労様です」
 みんなの見慣れたやさしい視線。ひとりの女性スタッフは、さっと自分の席を立ち、当然のように社長室に入って行くと、給料袋らしきものを手に戻ってきた。そして、その女性ににこやかに手渡したのである。
「ありがとうございます」
 また深々と悲しいぐらい頭を下げる中年の女性。ほかに会話をかわすこともなく、ごく当たり前のことのように見送るスタッフたち。呆然とそれを眺める私に、ひとりの先輩記者が、あの人は定年間近い男性の奥さんだということを手まねで教えてくれた。
『ヘエー、奥さんがお給料を会社に取りにくるんや……』
 当時はお給料も手渡しの時代。きっと何かの事情で家に給料入れなかった時期があったのだろうと勝手に推測をしてしまった。
 それにしても、経済観念のない夫の給料を、わざわざ会社まで取りに行かなければならない妻の役目も寂しすぎるが、その給料にすがって生きなければならない女の生き方にも疑問を持たずにはいられなかった。
『こういう男もいるんだ』
 入社して、まず一番の社会勉強となった。

 若い時の身替わりの早さは我ながらすごいものである。
 経済新聞社では記事校正や整理の勉強をさせてもらったが、自分が学びたいのは広告コピーだという思いが強くなり、何ともあっさりと辞表を提出。小さなデザイン事務所の「見習いコピーライター募集」の記事を見つけてさっそく応募した。
 見習いというだけあって、作品も何もない私でも簡単に採用されることになった。そこで「ラッキー」と思ったのも束の間、簡単に採用されたのには、それなりの理由があった。
 そこはデザイン事務所とは名ばかりで、完璧な版下屋さんだった。今のようにコンピューターでデザインやレイアウトするのではなく、当時は、デザイナーがデザインしたケント紙に、コピーライターが原稿用紙に書いたコピー、カメラマンが撮影した写真などを添えて、版下屋さんに送付。そこで写植屋さんが文字をレイアウト通りに打って、写真文字に。それから製版に向けて、それぞれの写真やイラスト、写真文字などを、1枚の台紙に手作業で張り込んでいく版下という行程があったのだ。
 その会社はまさに版下屋さんで、私が希望したコピーライティングの仕事もなければ、教えてもらえる先輩のコピーライターもいなかった。
 ところが、さすがに社長は抜かりがない。「わが社でも近い将来、デザイン業もやりたいので、コピーライターが必要になるときが必ず来る。そのときのために、自分で考えたコピーを文字として打つ写植を勉強してみないか」というのである。

 後で考えると、コピーライターが自分の原稿を自分で写植に打つことなどあり得ないのだが、そこはいい加減なヤング思考。機械の前に座り文字を探して打つという行為はゲームっぽくて、『長い人生やもん、写植を覚えておいても損はないやろう』という安易な気持ちと好奇心だけでやることにした。
 そこで、写植歴10数年のNさんという男性オペレーターに教えてもらうことになった。ヘアスタイルはトニックをベッタリつけたオールバックで、肩に白いフケが目立つ男性だったが、優しい物言いの人で丁寧に教えてもらった。
 文字を探して原稿通り打てたら印画紙を取り出し、暗室で現像する。当初、文字を探すのに随分時間がかかったが、予想以上に早く上達し、与えられた仕事は適当にこなせるようになった頃のこと。
 Nさんの態度が急変し、私に対して口を一切きかなくなったのだ。最初は冗談かとも思っていたのだが、どんな質問をしても無視され、呑気な私には何の理由も思いあたらなかった。Nさんの態度は数週間しても変わろうとせず、段々と腹立たしくなった私は『よしっ、こうなったら全部覚えて、サッサと辞めてやる!』と、挑戦的になってしまったのである

 意を決した私は、社長に直接「会社を辞めたい」と申し出て、「コピーをきちんと勉強したいから」という理由も説明した。すると、社長はその場へNさんを呼び、私の気持ちを伝えてくれた、
  その時だ。30歳も過ぎようとする男が拳を両膝にのせたまま、その場でうつむき静かに泣き出したのである。 もしかしたら引くに引けない理由があったのかもしれない。しかし、これが泣くほどのことなのか……。
 またしても心底から感じた。『こ、こんな男もいるんだ!』。
 そして、この時以来、せっかくマスターした写植技術を、長いライター生活のなかで使うことは2度となかったのである。

 男はまだまだ複雑だった。
 私は今度こそと、コピーライターがいるデザイン事務所を見つけて応募した。
 応募とはいえ、スタッフ募集などしていないのに電話で問い合わせ、「一度会ってみてもいいよ」という社長の好意に甘え、しかも作品が1枚もない私は、何編かの自作の詩を持参して面接に向かった。
 若い頃の恐いもの知らず、厚かましいだけの「ダメもと精神」である。ところが、その突拍子さが新鮮だったのか、ただの使いっ走りが必要だったのか、採用されることになった。ただし、給料はわずか2万円。コピーさえ勉強できるなら安いとも感じなかった純粋な頃である。
 小さなデザイン事務所だったが、かなり大手のシューズメイカーや整髪料の広告を手掛け、社長が自称、ひと文字何万円という男性コピーライターだった。カッコいいイラストレーターの女性から、「勉強になるから、いいコピーやフレーズは何でも、自分のノートに写してみるといいよ」と教えられ、その言葉は私の宝物となった。
 ただ、コピーライターの見習いは、私を含めて4人。大卒で春に入社したばかりという男性2人は、共に作家志望という異色派で、我々に与えられたのは試練の連続だった。

 まず、文字は原稿用紙に書くものだと思っていたら大間違い。学校でよく使ったワラ半紙を四つ切りにしたものが一人一人に配られ、社長から与えられたテーマについてまとめるのだ。コピーとは程遠い「書く」訓練が始まったのである。
 でき上がると順番に、社長の机まで猛獣にエサを与えるように恐る恐る持っていく。自分の前に同僚が怒鳴られまくるのをイヤというほど見せつけられているからだ。伏し目がちに「お願いします」と原稿を手渡すと、読み始めた社長の顔がみるみるうちに赤みを増していく。そして、嵐のような罵声が飛ぶのである。
「こんなモンしか書かれへんのか! キミはもう少しはマシなモンが書けると思ってたんや! 何や、これは!」
「・・・・・・・す、すいません。書き直してきます」
 何がどう悪いかも理解できないまま、オズオズと席に戻るのみ。次にまた新しい紙がもらえるのではなく、そのワラ半紙に書いた文章を消しゴムできれいに消してもう1度、いや、何度も書き直す作業が続いた。
  クサクサして消していると、勢いあまってよく破れたものだ。そうなると、セロテープを裏から貼って使うのである。
 しかし、面白い勉強法も教えてもらった。突然、社長に呼ばれ、ビクビクしながら社長の席まで行くと「これから出掛けるから、ついて来なさい」といわれる。上着を手に、再びビクビクしながら、しかも愛想笑いを振り撒きながらついて行くと、梅田の繁華街を抜けて映画館に連れて行かれたりする。
 映画がタダで見られるなんて思うと大変なことになる。題名も分からない映画を途中から見はじめ、「この女優さんだれやったけ」なんて考えているうちに、社長が突然「帰るぞ」と言い出し、途中で席を立つ。そして、急ぎ足で会社に帰ると、「今の映画について思ったことを何でも書きなさい」となるのである。
「エッー! あれだけで何を書けっていうのよ!」
 などと口答えは絶対できない。あら筋もよく分からない映画について、何を書いたらいいのか悩みながら、それでも鉛筆を走らす苦しみ。書いても、書いても、書けるわけはなく、また例の繰り返しで罵声を浴びることとなるのである。

 その社長に家からよく電話がかかってきた。
「◇◇ですが、主人はおりますでしょうか」
「はい、しばらくお待ちくださいませ」
 たまにその電話を取り次ぎながら、ある日、声の主が違うことに気がついた。社内での噂を取りまとると、ひとりは不倫相手ということだ。原稿ひとつまともに書けない私なのに、それからは電話が鳴るたびに興味津々。段々慣れてくるにつれ、不倫相手の回数の方が断然多いことが分かってきた。
 こんなことで面白がっている私も私だが、社員にはとびきり厳しくしながら、社長も社長である。私の男を見る目はまたまた厳しくなった。
『こんな男もいるんだ』
 どういう因果か、社会人としてスタートしたばかりの頃に「男選び」の勉強をさせてもらうことになった。こうした印象的なことがあったからか、どんな挫折をしても、私は「書く」という仕事に対してますます執着心が強くなっていった。

 その後はディレクターやデザイナー、コピーライターなどきちんとチームで仕事をするデザイン会社に出会えて、そこで共に働いた人たちとは今も交流がある。
 出産後フリーになってからは、また一からのスタートだったが、前進すれば必ず人との出会いがある。商品を売るための言葉を短いフレーズに凝縮していくコピーライティングは楽しかったけれど虚しさもあって、途中で出会った人物取材やルポものの面白さに引き込まれ自然と移行していった。書くことの師となる人とも出会い、かけがえのない仕事仲間もできた。
 書きたい雑誌には、その理由を手紙にしたため作品を添えて編集長宛に送らせてもらい、長いお付き合いをさせてもらった。もちろん時代性もあるだろう。
 そのご縁で、また次につながっていく。納得のいく原稿と信頼しかない。人と人とのつながりは、人生のパイプになっていくのだとつくづく思う。

 さらに実感したのが、「書くこと」は、大きな癒しになることである。
 30年ほど前のこと。人生にとって最大の困難に遭遇した。二女が8歳で難病を発症したのだ。
「一生治らない病気です」
「これから毎日数回の注射が必要になります」
「食事制限が必要ですが、普通の生活はできますからね」
 初めて行った混雑する大学病院の診察室で、担当医が取り繕うような笑顔で語りかけてくれた、3つの言葉。
 一時すべての機能が停止し、真っ白になってしまった私の頭の中で、これらのフレーズが渦巻いた。急遽、入院することになった二女を病院に残し、やっと家にたどり着いた当日は、家族で下を向いて泣くしかなかった。

 それから数ヶ月間、なかなか前を向けず、不安の衣を何重にも着せられたように恐怖心がつき回った。でも、私はちょうどラジオのナレーション原稿の仕事をしていて、取り敢えず週一で書かなければいけなかった。
 同時に、二女は小さな子どもだというのに、いえ純粋な子どもだから不思議なくらい病気を受け入れたのだ。

 振り返れば、その2つに救われた。
 そして私は、あまりに認知度の低い病気について社会に知ってもらわなければと、自分の体験を書き始めたのだ。同じ病気になり、困難を抱えて生きる子どもたちを取材し現状を綴った。
 それが私が初めて出版した本となった。何度も何度も書き直す中で、徐々に正常心を取り戻していけたような気がした。辛い体験を文字にすること、つまり外に向けて表現することは、心を回復させることだと知った。
 その間に出会った同じ病気の子や家族、信頼できる医師たちとの出会いにも感謝する機会となったのである。お陰さまで成人した二女は、自分の仕事を持ち、普通の人と変わらなく明るく暮らしている。
「書くこと」でもちろん原稿料はいただいてきたが、「書くこと」でこれまでどれだけ助けられたことか。
 さあ、またこれからも書かなければ……。


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