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人生をつなぐ母の味


#創作大賞2024 #エッセイ部門

 父が逝ってもう30年あまり、母が逝って20数年になる。私自身が高齢者となって徐々に父や母の年齢に近づいているせいか、ことあるごとに思い出すのが幼い頃の父と母の姿だ。
 4人きょうだいの末娘だったこともあり、ずっと母の後をついて回っていた記憶がある。母が遠くの養鶏場に卵の買い出しに行く時、あるいは近所の編み物教室に通う時、いつもの八百屋さんに行く時も必ずついて行っていた。
 その母の実家は、テレビ番組の「ポツンと一軒家」のような場所にあった。私が育ったのも岡山県南西部にある田舎町だが、母の実家はそこからさらに北部にバスで40分。バスから降りて40分程歩いてひと山越え、やっとたどり着くような場所だった。
 幼い頃、母と一緒にきょうだい4人でたびたび訪れた大好きな「奥のおばあちゃん家」。門の横に馬小屋があって馬がいたり、その奥の小屋には牛もいたり。母屋の廊下の下では何匹ものウサギが飼われていて、庭にはヤギがつながれ、離れの下には広いニワトリ小屋もあった。家の周りはぐるりと畑が広がる農家で、長女として育った母は辛抱強くて、愛情あふれる人、とにかく働き者だった。

 父が建具店を営んでいた我が家は、店と住まいの間に作業場があって職人さんが7~8人。住み込みの職人さんも3人いて、母は毎日、祖父母を含め、11人分の食事の支度をしていたことになる。
 しかも、建具の作業場から出る木くずやオガクズの処分のため、お風呂は焚きかま式。台所のかまどもガスコンロが普及した後々まで残して使っていた。当時の母の一日の仕事は、かまどに火をつけることから始まり、ご飯を炊き、みそ汁を作って、漬け物樽から白菜や沢庵を出して……。食事の片付けが終われば、庭や通路の掃き掃除、各部屋の掃除が待っていた。そして、毎日の買い物。母の一日はどんなにあわただしかったことだろう。
 それでも夜には、暑い夏の日など蚊屋の中で幼い私たちにウチワであおぎながら寝かせてくれていた。今の私のていたらくな暮らしぶりを見たら、母はなんと言うだろうか。

 その上、日々のぬか漬けから、初夏の梅干し漬けやらっきょう漬け、ショウガ漬け。秋になれば沢庵漬けから寒い時期の味噌の仕込みまで、ほとんどが手づくりだった。実家の地下室には母のつけた梅や漬物、味噌類の瓶詰めがズラリと並んでいたのを思い出す。
 指し物師だった祖父が建てた家で、家の中央には小さな地下室があった。きっとかつての防空壕だったのだろう。5段程の板の階段を降りると、内の壁は基礎工事の石積みのまま。その石が棚の役目をしていて、その棚に母の瓶詰めが並んでいた。中に入るだけで、空気はヒヤッと冷たく、いくつもの漬物が混ざった特有の匂いがして、子どもにはあまり心地いい場所ではなかった。兄に「これ以上悪いことをしたら、今度は地下室に入れるぞ」と叱る父の声に、私は兄以上にゾッとしたものだ。

 そうした暮らし方は、時を経ても私の体の一部に組み込まれているのだろう。仕事が忙しい時も、春の気配を感じるとスギナの仲間の土筆の成長が気になり、コロナ禍前までは夫婦で近所に土筆を摘みに行き、土筆炒めを楽しんだ。
 たっぷり摘んできた土筆をチラシなどにザーッと広げて、1本1本ギザギザのハカマを取っていく。指先が土で茶色くなってしまうし、根気がいる仕事だが、「以前は母や、小さい娘たちと一緒におしゃべりをしながらやってたなあ」「奥のおばあちゃん家のそばには、肥えた土筆が群生してたわ」などと、昔のことを思い出す優しい時間となるのだ。それを何回も水洗いをして調理する。甘く苦い春の香りが、3月の食卓に欠かせない一品だった。

 梅雨時期に入り、八百屋に「らっきょう」が並び始めると、またワクワク。すぐに手に入れ、料理研究家・堀江ひろ子さんの「失敗知らずのらっきょう漬け」という簡単な方法で浸ける。
 大きなボールでらっきょうをザクザクと水洗いながら土を落とし、つながっている株を剥がしてから、一粒ずつひげ根と目先を切っていく。薄皮も丹念にむいたら、さらに水洗い。ざるに入れてベランダで1時間ほど干して水気を飛ばす。そして、酢と水、砂糖、粗塩、とうがらしを一緒に煮立たせ、耐熱性の容器に入れたらっきょうの上に、一気に注げば出来上がり。これだけで間違いなくカリカリに仕上がってくれる。失敗しないからこその、毎年の作業。梅干し漬けにも何度か挑戦したが、マンションでは数日必要な天日干しがうまく続かず、やめてしまった。
 らっきょのひげ根を切る作業も土筆と同じ。切っても切ってもなかなか終わらず、心が折れそうになる時もあるが、それでも6月になると毎年必ずやりたくなってしまう。「なぜだろう」とよくよく考えてみると他でもない。86歳で亡くなった母と、時間を超えてつながれるような気がするからである。何もかも手づくりだった母の足元にも寄れないが、同じような作業をしていると、元気な頃の母とつながっていく気がして嬉しくなる。レシピなど教わったことはないのだが、母と同じ時間を共有できている気分になれるのだ。
 普段のご飯づくりでもそうだ。おにぎりを握れば、海水浴の日、母が大ザル一杯に数えきれないほどの俵形の海苔お結びを作っていたのを思い浮かべ、鶏の肝を炊いていたら、母の味付けは甘かったなあと蘇る。秋の鬼祭りには酢漬けにしたツナシに、すし飯を詰めるツナシ寿司を大皿にいっぱい作っていたことも。子どもの頃、小海老の皮むきを手伝っていると、「これはまだ生きてる!」と私の口に甘いエビを入れてくれたこともあった。ドーナツを揚げてくれたことも。お弁当の卵焼きも、金平ゴボウも、高野豆腐も、白身魚のすまし汁も、柿の白和えも……、おいしかったなあ。

 母娘の関係というのは、こういうものなのではないだろうか。幼い頃から毎日、毎日口にした手作りの母の味。さまざまなおかずやご飯の味を通して、目には見えないいくつものつながりが、かつての懐かしい光景や温かい思い出、喜びなどを一緒に引き寄せてくれるのだ。「食」は、優しくて太い糸で親子を、人生をつないでいくものなのだろう。いずれは娘たちが、同じように何かの料理をしながら、小さなつながりを見つけ出してくれたら嬉しいなと思う

 その一方で、父との関係はどういうものだったのだろう。母との関係のように深く日常の生活を語ることもなければ、くだらない話に時間を費やすことも、自分の深い思いを議論し合うこともなかった。それでも、生活の端々で見せた父の顔や言葉が、幾つになっても断片的にこぼれるように飛び出してくるのである。
 時折蘇るのは、長い木材を軽々と片手で持ち、半ズボンの仕事着姿で笑っている若き父の姿である。
 建具店を営む我が家は、店と住まいの間に作業場があって、いつも木材を切る機械の音や金槌を打つ音などが、BGMのように住まいに聞こえていた。父が職人さんに次の仕事の説明をしたり、ガラス屋さんや表具屋さんが訪れて世間話をしたり、父が働く姿が日常にあった。職人さんの仕事もさまざまで、七輪に弱い火をおこして座り込み、1本の細い木を日がな一日あぶっている姿もよく見た。きっと木をほんの数ミリずつジワジワと曲げていく「曲げ木」の木工技法だ。額縁や家具の角の部分、椅子の丸い背もたれ部分などに使うものだと思う。店への通り道には大小の木材が何十枚も立てかけられ、一段上にある作業場の壁には、カンナやノコギリ、ノミなどの道具類がズラリと並んでいた。その光景も音も木の香りも私の原風景である。

 そういえば、もう何十年も使っている私の仕事机も、「ボックス2つに、上に長い板を置くだけのものでいいから」と、父に頼んで作ってもらったものだ。すぐ隣に置いている資料入れは、やはり父が作った自慢のヒノキの水屋である。本来なら茶道具などを入れる風流な家具なのだろうが、私は自分の作品や雑誌の切り抜き、各種資料、伝票などを申し訳ないほど押し込んでいる。
 金具類を一切使わない、木組みの水屋。観音開きなっている扉も、木ねじをくり抜いた穴にはめ込むだけで、寸分の狂いもなく開け閉めできる。指物師だった祖父から父に、そして職人さんに受け継がれた「技」なのだろう。

 そう考えていたら、遠くに逝ってしまったと思っていた父が、随分近くで見守ってくれていたことにあらためて気づかされる。父も父で、「やっと気づいたんか?」と笑っているのではないか。
 さらに、である。結婚時にも、食器棚と和ダンス、洋服ダンスの3点を父に作ってもらった。姉たちがピカピカの婚礼家具セットを揃えていたのを見たせいか、私はシンプルで落ち着いた家具を選びたかった。ちょうど雑誌『アンアン』に出ていた、パリ風のダークブラウンの家具を父に見せて、こんな感じでと頼んだものだ。その中でも毎日使う食器棚は、自分の持ち物の中でも大好きな作品。扉を開いてお皿やグラスを出し入れする時、もう数十年も使っているものなのに、優しい気持ちにさせてくれる。
 毎日バタバタと忙しく暮らす中で、そんな素敵な家具に包まれて暮らしていたことも忘れている自分に気づかされる。父の温もりが籠もった生活用具と、両親が亡き後も一緒に暮らしているなら、両親に包まれて暮らしているようなものなのに。そんな大切なことに今の年齢にならないと気づけない、愚かな私である。

 私は高校卒業後、岡山から関西の短大に入学し、そのまま大阪で就職した。コピーライターという親には想像もつかない職種に就いて3年。突然「会ってほしい人がいる」と、両親の気持ちなど考慮することなく、実家に同行したのが現在の夫である。大学卒業後、就職したばかりというまだ大人になりきれない、父にとってはどこの馬の骨とも知れない青年だった。しかも、両親には黙っていたが、出会ったのはアルバイト先のジャズ喫茶だった。
 新幹線とバスを乗り継ぎ、わが家を訪れた青年は、ガチガチに緊張しているにも関らず、傍目にはかなりリラックスして見えたようだ。母が用意してくれた焼き肉を、いつも腹ぺこの若者らしく美味しそうに頬張り、平らげ、次々と継ぎ足される酒をそれは美味しそうに飲んだ。「遠慮も何もないの」と思われるほど。緊張しているとなど誰も思えないほどの飲みっぷりだった。そして、お決まりの飲みすぎてゲロ状態に。
『あ~あ、調子にのってしもて……』
 と、ため息をつくのは私だけ。温厚なはずの父が、何も言わずにふっと家を出てしまい、深夜まで帰らなかった。後で母に聞けば、一人で近所の飲み屋に行っていたらしい。だが、後々にも結婚を反対することは一切なかった。
 父の深い気持ちは慮るしかないのだが、その後も父の本音を聞く機会もなく、聞こうともせず結婚へと進んだ。だからこそ彼との生活を頑張ろう、2人で一生懸命生きなければと、私には重石となったのだと思う。そして、6月の花嫁は幸せになれるらしいという雲をつかむような伝説を、ただそうあってほしいぐらいの感覚で、父の腕を借りてバージンロードを歩み、古い教会で式を挙げた。
 幸せだったかどうかの結論はまだ出ていないが、我慢強くない性格の2人がここまで来れば腐れ縁にしろ、幸せに近いのだろうと思っていい年齢になってしまった。つけ加えておけば、生前父は夫のことを随分気に入っていた。
 
 毎朝、目を覚ますと、枕元に置いたタバコ盆のキセルで寝起きのタバコを吸っていた父。着替えると、一番に庭に出てラジオ体操。昼食は好物のうどんを毎日食し、食後は30分の昼寝と、規則正しい生活を好んだ。その父の寛ぎは、毎日午前10時と午後3時に煎茶をたしなむこと。馴染みのお茶屋で買い求めた軸茶を、細長い木製盆に5客並んだ萩焼の煎茶茶碗で楽しむのだ。鉄瓶で沸騰したお湯を湯冷ましにし、急須に入れてたっぷりと時間を置き、煎茶茶碗に愛おしいそうに接いでいく。そして、甘くて渋いお茶をゆっくりまったり美味しそうに味わいながら、お茶休息を楽しんでいた。
 その時間をめがけてやって来る客人に、「こんなに美味しいお茶は余所ではいただけません」などと言われると嬉しそうだった。そんな風流な面もあった父だが、相当に細かい人でもあった。
 とにかく無駄使いが嫌いだった。当時はまだまだ貧しい時代で、夕食のおかずが1~2品だけという日でも、父には酒の肴として毎夜用意されたお刺身。その刺身につける醤油は、「最後の一切れでなくなる量をお皿に入れるべし」という人だった。お腹がいっぱいになれば、刺身一切れでも残し、焼き肉用のタレも水炊きのポン酢も、声に出して注意はしないけれど、必要量以上に使うのを嫌った。食後使った爪楊枝は仕事用の机の引き出しに直し、専用の小振りのナイフで先を削って何度か使っていた。ちり紙も、使い足りないと思えば自分の引き出しに直し、もう一度使っているのをたびたび見たことがある。私が近所の友だちに電話をしていれば、「そんなことは直接言いに行きなさい」と叱られ、長電話をしていると父の視線が気になった。

 習性というものは恐ろしい。飽きれて見ていたはずの私が同じようなことをしてしまう。指先のちょっとした汚れにティッシュをパッパと使う娘を横目に、もったいないと思ってしまうのだ。ラップは必要な量しか出せない。一度かけただけのラップなら、食器洗いの時、お皿の汚れ取りに使えるからと置いておく。きれいなままのナイロン袋をそのままゴミ袋にはできないし、シャンプーも歯磨き粉もマヨネーズも、逆さにして最後まで使わないと気が済まない。古くなったタオルやTシャツは使い捨て雑巾にと切っておく。家計はどんぶり勘定なのに、究極の「もったいない精神」は私の体に染み込んでしまっているのだ。
 職人気質もそうだろう。木材を何日も干して製材し、時間をかけてコツコツとミリ単位で家具や建具をを仕上げていく作業は、資料を集め、取材や思考、体験を重ね、原稿用紙ひとマスずつに文字を埋めていく「書く仕事」と同じではないかと常々思ってしまう。
 手に持つのがノミやノコギリであろうと、万年筆やパソコンのキーボードであろうと自分の思いを込めなければ、他人様が使いたい、読んでみたいと思うようなものは生まれない。思い通りにいかなければ、何度もやり直し、ひたすら自分で納得のいくものを生み出していく。辛抱強く向き合う気持ちは、父から受け継いだありがたい職人気質だと都合よく思い込んでいる。

 父や母とはまた違う忘れられないつながりもある。
 短大時代、1年ほど京都に暮らしたことがあった。当時、夢中になっていたジャズ喫茶への帰り道、京都東山の文房具屋の軒先に、小さな紙きれが風に揺れているのを見つけた。気になって足を止めると「洋裁おしえます」と素っ気ないほど小さな文字で書かれていた。
 これが縁というものなのだろうか。それまで洋裁のことなど頭の片隅にもなかったのに、なぜか急に興味がわいて、ためらうことなく店の戸を開けた。「すいませ~ん!」と声をかけると、「はい」と奥から素っ気なく現れたのは大柄の中年女性。「あのー、洋裁を習いたいんですが……」と伝えると、その女性は笑顔をつくることもなく、「来週の月曜日からどうぞ」と返してきた。その淡々としたやりとりが「先生」と私の出会いだった。
 私はその翌週から週一で洋裁教室に通い始めたのだ。小さな文房具店の奥に6畳ほどの和室があって、そこに大学生や社会人など7~8人の若い女性が通って、思い思いの洋服を縫っていた。ミシンを踏む人もあれば、型紙をつくる人や手縫いに精を出す人も。先生を囲んでおしゃべりを楽しみながらのゆるい教室だった。短大やバイト先で出会う人たちとは、また違う世代の女性たちの生活や考え方にふれる場にもなった。
 先生は東京生まれの東京育ち。長い京都生活にもかかわらず、言葉も気性も江戸っ子のまま。母と同年代にしては長身で、背筋をシャンと伸ばして、辛口にピシッピシッとものを言う人だった。その反面、「ねえ、ねぇ、ちょっと面白いと思わない?」が口癖で、ほんの少し興味があるものを見つけると、じっとしてはいられない性分。文房具屋の奥さんも、洋裁の先生という肩書も、あまり似合わない人だった。
 
 それから短大を卒業し、コピーライターになるんだと小さなデザイン事務所を転々とした2年ほどの間、私は母の懐に帰るように先生のもとに通いつめたのである。
 先生は褒め上手で、才能などあるやらないやら分からない私ををつかまえて、「あなたは将来、きっと売れっ子のコピーライターになれるわよ」、「口の中でソッと甘さの広がる砂糖菓子みたいな子だね」と、暗示にかけるように繰り返すものだから、私も居心地の良さに自然と足が向いたのだと思う。
 エスニック風ブラウス、小さなボタンを30個もつけた赤い花柄のワンピース、大きなポケット付きの茶色のワンピース、Aラインのジャンパースカート、コールテンのパンツスーツ、友人の披露宴用の淡いブルーのお嬢さま風ワンピース、母のボウブラウス……、そして、最後には自分のためのオーガンジーのウエディングドレスまで、今では想像もできないほどの洋服を精力的に縫いあげた。

 希望する事務所がなかなか定まらず、次の会社が決まるまで空白時間ができると、「うちに来てればいいじゃない」と不安定な小娘の居場所を提供してくれた。その間、絵の好きな先生に連れられ、動物園や近所の風景を写生して歩いたり、本物のヌードモデル(オバサン)をスケッチする夜間の絵画教室に通ったり、岡崎周辺を歩き回った。
 また日の高いうちから、古い銭湯を探索しようと洗面器片手に繰り出したり、階段タンスのある京らしい部屋に泊めてもらい、夜中まで話し込んだこともあった。故郷の母とは違う、同世代の友人やボーイフレンドとも異なった面白さや楽しさがあって、やさしい空気が流れる時間だった。
 
 私はこの出会いで、ささやかな日常の何でもを楽しみながら、前向きに明るく生きるためのエッセンスを学ばせてもらった。それまでの私の周りの大人の女性は、女としての役割に縛られ、その拘束にも気づかず、周りの目や世間体を気にする人たちだった。グチらず、こぼさず、良き母であろう、良き妻であろうと、しんどさを顔に出さない人がほとんどだった。先生はそれを否定することもなく、自然に、私の目の前から取っぱらってくれたのだ。
「やりたいことはどんどんやらなきゃ」
「美しいものをたくさん観て感動し、おいしいものはどんなことがあっても食べてみなくっちゃあ」と。
 その前向きな姿勢が、私のその後の生き方を大きく左右したことは間違いない。
 それから私が結婚して、仕事や出産で足が遠のき、2人の娘を連れて再訪したのが10数年後。親子の対面のように泣きじゃくる私を笑顔で迎えながら、
「まあ、こんないい子たちによく育てたじゃないの」 とまた褒めてくれた。そして、私の小さな仕事一つひとつを手に取り、「こんな仕事ができるようになってよかったね」と喜んでくれた。
 旦那さんを看取り、高齢になっての不自由なひとり暮らしの中で、京都取材のたびにひょっこり立ち寄る私を「よく来たじゃないの」と、気丈な母のように迎えてくれた。
 それが、「私ね、もうそろそろダメなような気がするの」と気弱な言葉が出るようになって間もなくだった。何度電話をしても通じず、案じていた矢先、脳硬塞で倒れたという知らせを東京住まいの息子さんからいただいた。
 意識は回復しても言葉が出ず、体が不自由なってしまった先生は、見舞う私に喜びながらも、手真似で「忙しいのだから早く帰れ」といってきかなかった。ベッドの柵にさり気なくかけられた「拘束ベルト」も見逃せなかった。きっと「ねえねえ、楽しいと思わない?」と言えなくなった自分をあまり見せたくないのだろう察した私は、後ろ髪を引かれる思いで病院を後にした。
 私にとって、それが先生との最後の出会い。訃報が届いたのは、4~5ヶ月後。通夜に駆けつけたが、京都のしきたりとかで対面させてもらえなかった。その3か月前には実の母を亡くしたばかりだった。
 後々に先生の遺作となった句集を開いてみた。
 そこに残されていた短歌2首。
「エッセイに先生の事書きました コピーライターの彼女の年賀」
「若きらに洋裁教える刻過ごす その日日のさま書きてありたり」  
 その頃、先生からもらった宝物が2枚の「刺し子ふきん」。二重にしたサラシにみず色の糸で花菱柄を刺しただけのものだが、何度洗っても丈夫で、今も食器を拭くたびに先生の顔が浮かんでくる。
 つながってつながって、生きているのである。

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