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 千葉雅也『動きすぎてはいけない ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』をようやく読み終える。一ヶ月近くたってしまった。面白かった。ドライヴ感もって読み進めているときに得るイメージは強烈で、錬成したての鋼鉄のように赤く熱いものが自分の中に入ってくる感覚があった。読みながら、自分という存在の組成や輪郭といったものに考えをめぐらせる。特に「メレオロジー的総和」のイメージが印象に残る。もし自分がメレオロジー的総和な存在で、自分の中にある部分同士が関係づけられない(=全体化されない全体)としたら。「私」の中にあるもの同士が矛盾したって良いのだ。「私」を筋の通った一つの論理で説明しなくて良いのだ。「私」はただの部分部分の集まりでしかない。そもそも「私」を何か一つのもので説明し切ろうとすること自体、無理がある。自分自身ですら、「私」という存在のことを良くわかっておらず、日々自分が変化していく様を見て、日々自分がわからなくなっているのだ。「私」はそんな単純なものじゃない。
 私は、「あなたはどういう人ですか」「あなたという人を説明してください」「自己紹介してください」といった類の質問がとても苦手で、いつも「すぐに答えられるのは自分の名前だけだ」と思っている。もちろん、こうした質問が良くなされる就職活動とかで求められている答えは、自分の中にある「相手の求めている人物像と合致したポジティブなところ」、端的に言えば“良い人物、優秀な人物”だとアピールしなければならないことはわかっている。が、私は正直(だが素直ではない)な人間なので、そういった答えをスッと出せない。うーん、と考え込んでしまう。そして、沈黙。この沈黙は減点になる。
 私には色んな側面がある。みんなもおそらく同じ。自分自身を一つの論理で語ることはできない。「私は明るい人間です。」無理矢理そう括って語ることはできる。けれど、その言葉では語りきれない、そこから漏れてしまう部分の方が気になってしまう。「それも私なのに。」
 要するに、私は「メレオロジー的総和」という概念を知って、嬉しくなったのだ。何故だか私は、「自分の中にあるものが矛盾してはいけない」と思い込んでいた。でも私は関係づけられない部分同士の集まりでしかないのだから、全然矛盾したって良いのだし、自分の中に入ってきたものを無理くり何かと結びつけたりする必要もない。入ってきたら、入ってきたまま放っておいて良い。そう考えるだけで、何かが、いくらかスッキリした。

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