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石原吉郎の言葉 : <人間>はつねに加害者のなかから生まれる。被害者のなかからは生まれない。

被害者であっても「問題を切り分けて考えられる」ようになるためには、被害者が冷静に物事を考えられるような心の余裕と安心が必要になる。
「心の余裕と安心」は「話を聞いていもらうこと、被害を受けた自分の感情を認めてもらうこと」で生まれやすくなる。

なんとなくタイトルに惹かれたので、「被害者」という話で思い出したことをざっくり語っておきます。


私が被害者とか加害者という言葉について語る時は石原吉郎の言葉を思いだす


私は被害者と加害者という問題については以下のエッセイ以上に優れた文章を知らない。

ぶっちゃけ、私はこの文章を読むまではめちゃくちゃ被害者意識が強い人間だったが、この文章を読んで以来、自分が被害者であることから少しでも遠ざかりたいと思うようになった。

他の人はどうか知らないけど、私の中では自分の人生に一番影響を与えた文章の一つであると言ってよい。


被害者の立場からは<人間>は生まれない


このエッセイの文章はすべて重要だが特に重要な点を2つ紹介しておくと

①人間の精神が深刻な被害から恢復しようとしている時、人間はめちゃくちゃどす黒い憎悪の感情に捕らわれる(人間が真っ先に取り戻す感情は憎悪である)こと

②自分が被害者である限りは「個」として「人間」として自立できないということ

加害と被害が対置される場では、被害者は<集団としての存在>でしかない。被害においてついに自立することのないものの連帯。連帯において被害を平均化しようとする衝動。被害の名における加害的発想。

集団であるゆえに、被害者は潜在的に攻撃的であり、加害的であるだろう。しかし加害の側へ押しやられる者は、加害において単独となる危機にたえまなくさらされているのである。人が加害の場に立つとき、彼はつねに疎外と孤独により近い位置にある。

そしてついに一人の加害者が、加害者の位置から進んで脱落する。そのとき、加害者と被害者という非人間的な対峙のなかから、はじめて一人の人間が生まれる。

<人間>はつねに加害者のなかから生まれる。被害者のなかからは生まれない。人間が自己を最終的に加害者として承認する場所は、人間が自己を人間として、ひとつの危機として認識しはじめる場所である。私が無限に関心をもつのは、加害と被害の流動のなかで、確固たる加害者を自己に発見して衝撃を受け、ただ一人集団を立去って行くその<うしろ姿>である。問題はつねに、一人の人間の単独な姿にかかっている。ここでは、疎外ということは、もはや悲惨ではありえない。ただひとつの、たどりついた勇気の証しである。

この2点がものすごく重要だった。少なくとも、当時この文章を読んだときの私はこの文章にめちゃくちゃ衝撃を受けた。読んだ当日はまじで一言も言葉が発せられなくなった。
この時から、少なくとも私は「被害者面」をしながら集団に紛れて言葉を発することだけは絶対にやめようと思って今までずっと生きている。

「被害」を理由にして「個」を喪失しないよう自分を守るということ

これは被害をみなかったことにしようとか被害を訴えるなとかそういう話じゃなくてその逆だ。

個々が自分の被害を自分で訴えるべきで他者に依拠したり他者の被害に便乗したりすることは慎重になるべきだと言っている。

今の世の中、だれもかれもが「被害者」のポジションを取ろうとする。そして、別にそんなルールは決まっていないのに「被害者」のポジションを取った瞬間に途端に攻撃的になる。これがいけないと思うのだ。

その快感に酔いしれて、他者を勝手に加害者扱いし、殴る口実にしている愚か者も増えた。本人の中では「被害者ポジション」が自分の行動を免責してくれるということになっているのかもしれないが、傍から見たらただの加害者であるということが本当にわからないらしい。バカである。


このように、「被害」という名のもとに大勢が寄り集まって「集団」となり、「個」の被害をむりやり集団に取り込もうとする動きに対しては強く嫌悪感を持っている。

だからいじめ自殺問題とかで、他人の被害に集団でよりかかり、被害者の立場を簒奪して学校批判とかやってるやつらも嫌いだ。いじめ自殺などの報道の時に、ただの部外者なのに「被害者へ共感を示す立場」を気取れば何をいっても許されると勘違いしている人が凄く多い。被害者の立場を借りようが、その人たちがやってるのはただの加害行為である。「被害者の側にいるから私の暴言は正義だ」と思っている集団が口汚い言葉を語っていたら、そこからは距離を取らなければならない。


というのが、私の考えです。あくまで私の、です。

他人には強要しませんが自分のスタンスはそうだというそれだけの話。



おまけ:石原吉郎さんの本は皆もぜひ読んでほしい

常にだれかを憎悪するような発言をしている人は、何かしら人間性を喪失した状態からの「恢復期」なのであろうと思います。

そして、今のインターネットはこの「恢復期」の憎悪感情を癒さず無限に引き延ばし増幅してしまうようなところがあるように感じます。

石原吉郎は、シベリア抑留以降の人生が全て「恢復期」であり、一生それと格闘し続けた人でした。その格闘から生まれた言葉は今のすさんだインターネットに一番必要なものなんじゃないかとそんなふうに思ったりします。


ちなみに、私がこの文章と出会ったとき、この本はクッソプレミア価格がついており、それでもこの作者の文章が読みたかった私は10000円出して買ったし、そもそも中古で売ってなかった本はわざわざ大阪県立図書館に読みに行った。そのくらい思い入れが強い。150pくらいの小さな本ですが、私は最後まで読むのに3週間くらいかかりました。

kindle版で復刻されたのでぜひ読んでほしいなと思います。

まぁなんとなくわかると思いますが、私は一時期坂口安吾と石原吉郎にカブれ、全然理解も実践もできてないけれど表面的な部分だけ真似をしてるだけのとても薄っぺらい人間なのです。

ただ、少なくとも私のような薄っぺらい人間でも心打たれて考え方を改めさせられるくらいには力強い本です。連休の時とかにじっくり時間をかけて読んでほしい。

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