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「片喰と黄金」 人間は長い時間をかけて段階的に差別と闘ってきたことがわかる作品

州境を越える。ただそれだけのことがこの人にとってはこれほど困難だとは…

この作品。本当に傑作なのでぜひみんなにも読んでほしいんだけど、自分でもどう紹介していいのか全然分かんない。

とにかくめちゃくちゃエモいです。

同じくらいエモかった「辺獄のシュヴェスタ」が打ち切られて凄い悲しかったので、「片喰と黄金」はぜひ最後まで突っ走ってほしい。


差別について考えるのにとてもよい作品でもあります

とにかくいろんな要素からお勧めしたい作品なんですが、今回は「差別」というテーマに真摯に向き合ってるところを取り上げたいと思います。


7話からのエピソードでは「移民」差別
17話からのエピソードでは「奴隷」差別をテーマとして扱っています。


本当にヘビーな差別を見せつけられると、我々が普段雑によく考えずに発している「差別」という言葉には明確に段階があることがわかります。

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一番重たいレベルの差別は「生存権」「身体の安全権」すら保障されないこと

いわゆる生殺与奪の権を握られているということ。自分という身体の所有権すらないのが最悪の状態だ。

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だからこそ、これは憲法で保障しなければならない。

1840年頃のアメリカが舞台のこの作品で、特に南部では黒人にそのようなものは全く保障されていなかった。

今の日本でも、入管問題でこのレベルの差別が指摘されている。


次に重たいのが行動や移動の自由が奪われていること


嫌だと思っていてもそこから逃げられない環境というのは常時毒やスリップのダメージが発生し続けるようなものである。

精神や体力を回復することができない。じわじわ削られて耐久力が尽きた時点で死ぬ。逆転の可能性もない。

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強烈な格差固定機能があるため、これも絶対にダメである。


その次に重たいのが選択や思想・表現の自由が奪われること


思想の自由がなくなると、途端に内ゲバが始まる。

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生き方や行動について自由に選択できる権利が保障されているというのはそれだけで素晴らしいことである。

職業選択の際に制約を受けるというのは今でも続いているが、こういう差別には大いに反対していくべきだ。

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こういったもろもろ重大な差別の下に、細かい差別がある


気に入らない表象だとかお気持ちを傷つける細かいものはたくさんあるだろう。ただし、まず最初に守られるべきは上のようなクリティカルな部分に対して自由を保障することだ。この優先順位を間違えている人間に「差別」という言葉を使ってほしくない。


差別に耐えろといってるわけじゃない。他の人が受け入れてるからと言って自分が嫌なものを我慢しろということじゃない。

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むしろしっかりと考えて、できる範囲で抗っていくべきだ。

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でも、差別との戦いというものを安易に考えすぎてはいけない
つまり、自分たちの「お気持ち」のために、上位の差別を肯定してはいけない。それは自分のことしか考えてないしその時点で「差別肯定」につながる。

差別はそのくらい複雑なのだ。かつて克服したと思っていた差別も、何かあればすぐに復活する。目の前の餌に引っかかって罠にはまってより根本的な差別を復活させてしまうことをおそれないといけない。

人類が長い歴史を経て、土台からすこしずつ積み上げてきた差別との戦いの蓄積を、自分のためだけに壊そうとしてはいけないのである。


長い歴史を経て、ようやく国民に保障されるようになった権利の重要性を理解するために、順番を間違えないようにするために「公民」という授業があるのだ。知らないと、これ以上差別との戦いで先に進めないからだ。


最近は、こうした積み重ねを台無しにするような発言をしておきながら、自分は「反差別のために戦っている」と勘違いしている人が結構いる。

私はそういう人間を割と本気で軽蔑している。

それぞれの人が被っている小さな差別は我慢しろと言ってるわけじゃない。ただ、自分のためだけに、今まで積み上げてきた差別との戦いの歴史をないがしろにするようなことを言うなということだ。


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とはいえ、あまり臆病になりすぎるのも良くないんだけどね……

ここの線引きが難しい。


結局一番大事なのは、「何のために」差別と闘うのか、ということ

これが答えられない人間は、すべて偽物だ。

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差別と闘うことそれ自体が目的の人間は、信用しない。差別と闘うことで、どうしたいのか。これがない人間は信用ができない。


別にそれが私怨でもなんでもかまわない。

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差別と闘うというのは「自分をとりまく現状と戦う」ということだ。

そこには必ず何かしら葛藤があって、それでも成し遂げたい望みがあるはずなのだ。それがどういうものでもいい。

下手に格好をつけずに何か実現したいことや挑戦したいこと、まもりたいことを語るべきだと思う。それを実現するために何かの「壁」や「脅威」と戦うことが、結果として差別をつきくずす。


そう考えたとき、表現規制について論じてる人たちの紡ぐ言葉は、ほとんどが偽物めいている。何かを変えるためじゃなくて、「今の自分を肯定するために他者をダシにしてるだけ」みたいな意見が多くて、何が反差別だこの偽物がって言いたくなるようなのが多い。

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他人事として議論をしている人たちばかりにみえる。そういう人たちの声に埋もれて、当事者たちの声がかき消されてるのはなんか嫌だなあと思う。



それにしても、この作品はご都合主義的な展開も多いけれど、アメリアという主人公が真摯に物事に向き合いすぎてみててつらい

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頑張りすぎて話が進むたびにボロボロになっていくんだよね……

「暁のヨナ」はなんだかんだいってチートだよなあって思う。

アメリアは頑張りすぎだよ……。


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