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オタクが「オタクとしての死」を迎え、それでも自意識がオタクのままであり続けると「オタクゾンビ」になってしまう

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正直、オタクって言葉にはもはや何の価値もない(断言)。


特にアニメとかソシャゲはそう。人口があまりに多く増えすぎたので、本当にそれ自体には何の特別な意味もない。アニメとかゲームを見てるだけの人はいくらでもいるのであって、問題なのはどう楽しむかである。


「自分の楽しむ姿が他人にとって魅力的であるかどうか」が大事なのであって、「楽しみ方が上手な人」「楽しむための知識や情報をプラスしてくれること」がオタクとして一目置く価値がある人物ということになる。


ところが、昔からオタクやってる人は、「オタクが市民権を得られてなかったころからアニメやゲームを楽しんでた」みたいな謎の自負があるらしく、そのせいか「他人に理解されないこと」「小難しい語りをしてうっとうしがられること」を逆にステータスみたいに感じてるところがある。

そういう求道者としての生き方は否定しないが、こういう生き方は極めてコストが高く、たいていの人は維持できない。30を過ぎてからでも一つ一つのアニメを丁寧に掘り下げてみるみたいなことができる人は少ない。そういう人はたいていの場合、もはやろくに最近のマンガやアニメやゲームをやらずに、「昔取った杵柄」で適当なことを語るだけになる。


一人の人間がオタクとして老衰し、徐々に死を迎える過程である。


別にアニメや漫画に多くの時間を費やせなくなった人は、作品の表面のうっすい所しか触れてないからレベルとしてはライトオタクとレベルが変わらないのだから、その事実を受け入れて若い子たちと同じように薄く広く無邪気に作品を楽しめばいいのだ。別に仕事としてお金もらってるわけじゃないんだから楽しんだもの勝ちである。大多数の人はそうしている。



しかし、オタクであることくらいしかろくにアイデンティティがない人はこれができない。

変なプライドがあって「俺はライトオタクではない」っていう自己イメージを守ろうとするせいで、最近の作品について「浅い理解しかないのに」「批判的に語ろうとする」という最悪の厄介ムーブをすることになる。


こうやって「オタクゾンビ」が生まれる。


当たり前だが、批判的な感想は「レベルが高い人」がいうなら価値があるが、レベルが低い人がいう批判は💩でしかない。それよりは浅くてもいいから「僕はここが好き」「ここが良かった」といういいところ探しをしている人の方がよほど価値がある


ところが、ろくにアニメや漫画に時間を費やしてないくせに、「俺はライトオタクとは違うんだ~」っていう意識だけがしぶとく残ってる人は、とにかく浅い読解をもとに人気作品にケチをつけることで目立とうとする。


これだけたくさんの作品が世の中にあふれているのに、自分に合った作品を探す努力もせず、人気の作品に対して斜に構えた態度で接することで自分の存在をアピールしようとする。しかも言ってることのレベルがそんなに高くない。


そういう振る舞いをやってる人を、人がどう見るか、みんなはわかるかな?


そうだね、オワコンオタクだね。
「なんで好きな作品を見ないの?」「そこまでしてかまってほしいの?」「オッサン(おばさん)、もうオタクやめたら?」としか思われない。


これはマジで見苦しいので、そんなことをするくらいなら、新しい作品を無理に見ないでかつて自分が好きだった作品を何度も掘り下げるとかやった方がいいと思う。



というわけで、私はもともとオタクとして一度たりともガチ勢になったことがないので特にプライドもないし、ただただ「自分が面白かったな」と思う作品をまったり楽しみたいと思う。

一時期はトチ狂って「こんな作品がKADOKAWA大賞になるのはおかしい」とか叫んでたこともあるけど、できる限り余計なことを語らずに、ただ自分が楽しむことだけ考えたい。



と、ここまでがじぶんの話というか常識的な話。

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