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自分の中に軸がある人は信用するし、「所属する集団」に軸を置いてる人は信用しない

一貫性についての考え方のメモ。

一貫性と言っても、人によって基準が異なる。

私にとって一貫性があるというのは「ロジック(思考エンジン)」が一貫していることが重要だ。つまり「自分の気持ちをごまかさないこと」が重要だ。つまり、一貫性があるかどうかというのは「ちゃんと自分で考える人であるかどうか」くらいの意味である。

一方で、結論が一貫していることを一貫性という人もいる。別にこの人たちの意見を否定はしないが、私はこういう一貫性に価値を感じない。結論の一貫性を維持するために、毎回ロジックが変わるような人を信用しない。それなら人間である意味がない。ただのBOTでいい。知能も必要ない。

会話し始めてから2ことめとか3ことめに表現の自由とか差別とかいう言葉が出てくる人たちがいるが、こういう人たちは結論の一貫性を重視する人なのだろうと思う。そして、こういう人たちが「党派」を作っていき、自縄自縛に陥っていくのだろうと思う。私は、こういうのは「結論部分」以外で用いるべきではないと思っているので、こういう言葉がすぐ出てくる人とは議論をしたくない。


私は、結論の一貫性は全く求めてない。自分にとって大事なものはロジックの方だ。自分の価値観の方だ。 何が好きなのか、何に興味があるのか、何が大事なのか。 それが守られるのであれば、結論は自由に変えてよいと思っている。


特に自分を悩ませ続けてきた人生の課題である発達障害について考えるとき、一番大事なのは「生き伸びる」ことである。生きるチャンスを得るために必要であれば最初は多少差別的にみられたり扱われても構わないと思って生きていた。

私の今の労働環境は、「半日働いて(保険料などを考慮すれば)給料も6割程度」というある意味差別的なものだが、フルタイム勤務の職場では常に身心がボロボロになって耐えきれず退職する羽目になっていた私は、こういう扱いでOKと言ってくれる職場でなければ生きていけなかった。当事者としては、差別されないことは優先順位は低い。

私はこれが絶対的に正しいとは思ってないが、少なくとも私にとっては重要なことだった。


今までの社会の運営では、社会で固定的な結論を共有してそれを守り、それに適応しない人を排除するのが正しかったのかもしれないが、少なくともそういう社会で生きられない私としては、最初に定められた結論があって、それに一貫性をもって奉仕する生き方はできない。


なので、私は意識して自分のお気持ちを大事にしている


・私は、少なくともネットでは自分の「お気持ち」を重視している。
 自分が好きなものはほめるし、そうでないものには反発する。

・他人に忖度して自分のお気持ちを変えたくないので
 誰かとツルんだり毛づくろいコミュニケーションはあまりやらない。
 (化物語の暦くんの痛々しさをこの年になっても継続している)
 

・自分のお気持ちは変わりやすいことはわかっているので
 気持ちが変わること自体は全く一貫性を損なうものではないと考えている。
 なので、変化を押しとどめるようなことはしない

https://www.tyoshiki.com/entry/2014/10/28/030505


・とはいえ、あまりに安易に変化することを許容すると「節操」がないとも考えるので
 変化したこと自体は自覚したい。自覚して変化したい。
 だからその時の自分のお気持ちを記録として文字に残すようにしている。
 前に記述したときから変わっているなら、
 「こういう理由で変わった」ということもできれば記録しておく。
 まぁ言ったところで気づかない変化などたくさんあるのだけれど。

・なお、発達障害だからかどうかはわからないが、
 とにかく私は「自分」というものを制御することが難しくて苦労したので
 たぶん他の人よりは自分というものを意識することが多い。
 昔は絶望することもあったけど、哲学とかポエムとかにはあんまり興味ない

なので、自分はめちゃくちゃ「お気持ち」でしゃべる人だが
その代わりに、私は基本的には「私」を主語にするようにしている。
むしろはてブ民が私を主語にして語りたがらない理由がよくわからない。
自分の意見なのにそれをごまかす人はネットやってる意味がなくないですか?


ネットですら「私」を主語にして語らないで太宰論法を好む人の事は正直大嫌いである


・というより、ネットでよく「お気持ち」と揶揄されてる人たちって 
 まず間違いなく「私」を主語にしてしゃべらないよね。
 

・相手がどうとか、世間がどうというように
 「いわゆる太宰論法」をそのままなぞったようなしゃべり方をする。自分が軸になってない。
 なぜか「私がどう思う」という言い方を極端に避ける。

・対象がどうあれ、それに対して何らかの感情を抱いていたり評価を
 相手がどうかはいいとして、それに対する評価を下してるのは自分なのだから
 自分がどう思っているかが大事なのに、なぜかそれを認めようとしない
 

・あくまで体感だが、「お気持ち」をしゃべってる人の方が実は論理的なことが多い。
 逆に、はてブ民に代表されるように主語が自分以外の人の方が非論理的である。
 私の事じゃないから責任がないとでも思いこんでいるのか、
 いい加減な結論でも平気で言えてしまうのかもしれない。

・私が最も愚かだなと感じるのは自分で考えずに党派性に合わせる人たちだ。
 特に表現の自由がどうとか、リベラルがどうとか言ってる人たち。
 「考える前から結論が固定されている」というか、
 結論が先にあって、それにあわせてロジックは後付けになっていると感じる。

党派性に属している人たちは、結論は一貫しているのかもしれないが、そおういう人間にはまじで何の価値も感じない。


安易に「ダブスタ」を口にする人間は、「ノースタンダード」


そういう人に限って安易に「ダブスタ」という言葉を口にするが、私からしたら、お前らが「ノースタンダード」なだけだと言いたい。集団の意見に合わせるだけで、自分の中にポリシーがない人間など、個人として付き合うことは不可能だ。

私は、その人なりのポリシーやロジックがない人の事は、少なくともネットでは同じ人間とはみなしていない。

別に私を大事にしなくてもいいから、その人が何を大事にしているのか、どういうルールに沿って動いているのかくらいはわかるようにしてほしい。何一つ守るべきルールや価値観を持たず、ただ冷笑するだけの存在は、人ではない。

インターネットとは言え、コミュニケーションは最低限人間同士でやりたい。


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