フェミニズムやリベラリズムと「大衆」との相性の悪さについて
twitterプロフィールに「多様性を重んじる」と書いている人間は地雷というネタを思いついたのでこれに関して思いついたことをつらつらと。
ご存知の人も多いかもしれませんが「twitterプロフィールに「多様性を重んじる」と書いている人間は地雷」はかなり鉄板です。例外はあるかもしれないけれど一般論としてはこう認識しておいたほうが安全です。97.4%は地雷だと思ったほうがいいです。そしてわざわざ2.6%を自分がリスクを取って探す必要もない。こういう人間をうかつに信じてフォローしてしまう人間は何をやってもダメだと思うくらいに危機管理が緩いと思います。
なぜ97.4%の人たちがダメなのかって?「難しいことを簡単なように語る人間は、悪意であろうが善意であろうが危険」だからです。善悪の問題じゃないんです。単純に危険なのです。
97.4%のほうは多様性を重んじるのがどれほど難しいことかわかってないからそういうことを軽々しくプロフィールにできるわけです。というか「プロフィールに書いた時点で自分がそれをできていると勘違いできるほどに頭が悪い」可能性が高いです。そうでないなら、自分の正しさを疑わない危険人物の可能性を疑います。こっちのほうがやばい。
もっというと、頭がよい人は現状そういう風に書くと周りの人からどう思われるかわかってるからまず間違いなく書きません。そういう判断ができない時点でもう頭悪いです。頭のいい人はこういうことはプロフィールに書かずに実践していると思ったほうがいいです。
というわけで、プロフィールを見た時点で「多様性を重んじる」とか書いてる人はもうその時点で地雷だと思って避けたほうがいいです。
そもそも「多様性を認める」のようなリベラル的な態度は「大衆」と相性が異常に悪い
このあたりトートロジーといってもいいくらいです。小泉論法で言うと「リベラルは定義の時点ですでに大衆的じゃないんです。だからリベラルは大衆と相性が悪いんです」みたいな。
なんでかというとリベラルを主張するにはいろいろなものを我慢して寛容でなければならないからですね。余裕があり、感情より理念を重視する知性があり、かつ人と人との間の距離が近すぎないことが前提です。そうでない人間にはかなり厳しいです。
というかうっすらと自分が上の立場だという意識が必要なんですよ。
よく考えてください。「自分と同じ高さ」にいる人が、自分の我慢によって自由にふるまうことに寛容になるのって相当難しいぜ?自分より目下の人間や家族に対してすら、「なんで私だけ我慢しなきゃいけないの」って感情を制御するのは簡単じゃないでしょ?
まして家族とか好きな人ならいいけど主に必要とされるのは「自分が気に入らない相手」の自由を認めることです。「大衆=自分をほかの人と同じであると自認してる人」にできると思う?
結局のところ、真の意味でリベラルであろうとしたり、多様性を尊重しようとすることはその時点で自分の意志で「大衆」と一線を画するものなのです。自分はほかの人とは違うと思わないと厳しいです。ノブリス・オブリージュのような意識が必要です。
そう考えると大衆がみなリベラル的な思考を実践できるようになることはよほど高度な教育が遍く行き届かない限り無理です。だからこそ、リベラルや多様性を重んじる人は高学歴やセレブに多く存在するのです。これは東大合格者が高収入家庭の出身者が多いと同じくらい自然なことです。
こういうリベラルを「大衆」がまねようとしても張りぼてにしかなりません。プロフィールに「多様性を重んじる」みたい書いてる連中の97%はそういう人たちです。
リベラルにあこがれてプロフィールだけリベラルっぽくして実践できてない一般庶民は「恋に恋する少女」のようなものでまともな知性のある大人とは思えません
「リベラル」なエリートたちにとっては、自らの「リベラルな規範」に大衆が共感し従うことが理想で、それは実際のところしばらくの間はうまくいっているように見えた。しかし、リベラリズムが広く社会に浸透して「大衆化」した結果、とても自分には歓迎できないようなものまで「多様性」として包摂しなければならなくなってしまった。「私たちが築きあげてきたリベラリズムという理念は、お前たちの(低劣な)自由や権利を行使したり擁護したりするためにあるのではない」という本音を、とうとう隠し切れなくなってきている。
まさしくおっしゃる通りかと思います。
それでも「上から目線」ならまだ許せるんですよ。そりゃ確かに高尚な人からしたら低俗なものは許容できないってのはわかる。
上下でのすみわけはそれほど困難ではないと思います。イギリスのように「貴族は貴族の文化を大事にし、庶民は庶民の文化を大事にする。お互い理解できないのは当たり前」というあり方も存在する。日本は妙に平等神話があるから難しいかもしれないけど不可能ではない。
大衆は定義レベルでリベラルの「非寛容」の部分しか実践できない
さっきも書いた通り、大衆にリベラルの実践は不可能です。「大衆化されたリベラル」というのは用語レベルで矛盾してます。
その上でいわゆる「大衆化されたリベラル」という言葉で表現される人たちを見ると、この人たちは「弱者ぶりながら権力者としての振る舞い」をするんですね。「権力者としてふるまいながら、弱者ぶることでその責任をすべて逃れようとする」んですよね。とんでもない矛盾なのになぜかそれをおかしいと思わない頭の悪い自分勝手な人たちがいる。
どんな人でも主張内容だけでここまで嫌われることはそうそうない。リベラルは主張内容によって嫌われているのではなく、それ以前の問題として言動や振る舞いが自分勝手だから嫌われている。
私はそう思ってます。
※これはオタクにも跳ね返ってくることだから気を付けたほうがいいです。私は宇崎ちゃんの時に、「エロいから」とか「女性差別から」じゃなくて「身内ノリがひどすぎて一般人からしたらさすがにうざい」という部分だけは批判してます
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