『一庶民の感想』 15 いつ死んでもいいのさ

 独身研究家の荒川和久さんによると、現代で最も幸福を感じていないのは、40〜50代の未婚男性であるそうだ。わかる気がする。中年の孤独ほど辛いものはない。また、そもそも孤独に耐え得る才覚を持った人間は少ない。YouTubeなどで検索をかけても、この年代の未婚男性のあげているvlog系統の動画からは、孤独と不満と絶望が透けて見える。一縷の望みをかけて婚活やマッチングアプリをやってみるが、当然成果はない。それどころか、自らの心を深く傷つけられて終わる。商業主義と全てが貨幣に換算される、婚活、マッチングアプリの世界など元からそのようなものだろう。そして絶望した彼らは趣味に走る。食べ物、酒、アニメ、猫、犬等々似通った文体で、諦觀の裏返しとしての希望の言葉を口にする。

 そういう未婚の男性に、ぼく自身もきっとなると思う。走る趣味の内容が変わるだけで。

 アメリカやヨーロッパではインセルが問題になっている。

 私見だが、結婚=幸福ではないと言えるのは、結婚したことのある者だけだ。同様に、恋人がいる=幸せではないと言えるのは、恋人がいたことのある人だけだ。

 孤独な生活をずっと送っていると気がつく。人間の幸福とは他者と分かち合うことなのだと。分かち合うものは何でも良い。痛み、生活、食事、旅行、子育てなどなど。一緒にいてそこで行われている物事を共有すること、それが幸福なのだ。そしてこの幸福の感覚は、長年の孤独の内に沈潜しなければわからない。

 それでもぼくは憧れる。

 趣味で孤独を癒すことはできない。恋愛や結婚で孤独を癒すことはできない。ペットでもできない。子供でもできない。ゲームでもアニメでもできない。何によってもできない。そうであるならば、いっそ孤独と心中してしまおうか。我が永遠の伴侶は孤独なり!と心の中で叫ぼうか。人肌と触れ合うことが恋しくてならないのは、一体何故だろうか?

 ぼくもきっと未婚の男性になる。もしそれが、データの上では最も幸せを感じられない層に分類されるのならば、ぼくはそれでいい。ぼくは不幸でいい。不幸の何が悪いのか?

 他者には幸せになって欲しい、でも自分はきっとこのまま孤独なんだろうな、孤独を世間では不幸と呼ぶんだな、国だって孤独対策とか何とか言ってるし、でもぼくは国の孤独対策の世話になんかなりたくない、孤独が人を殺すのならば、ぼくは別に死んだって構わない、いや別に明日死んだっていい、そんな考えが頭を巡る。

 ぼくはいつ死んだって構わない。

 そういえば、亡くなった物理学者のホーキング博士がこんなことを言っていた。

「大切な人のいない宇宙に、一体何の意味があるんだ?」

ホーキング博士、そうしたらぼくの宇宙は全く無意味ってことになってしまうんですね。

 ホーキング博士、やっぱりぼくは、いつ死んだっていいですよ。きっと死の中にも新しい宇宙があると思うから。

 いつ死んだっていい、そう思いながら、ぼくは今も生きている。無意味だと思われる世界の中でも生きている。それはどういうことなのか?

 ぼくをこの世に引き留めているものは何なのか?今のぼくではそれは説明できない。言葉にできない。

 言語の外側に何かがある。それは、言語で表せるぎりぎりの線が何となくでも見えてくることによって、その存在が感じられるようになる。

 ぼくはぎりぎりのところで格闘していたのかもしれない。そしてそれは、今後も続くのだろう。

 ぼくが今生きている理由。表現したい何ものか。捕まえたい何か。それは…。

 沈黙。新しい言葉が獲得されるまで。

 語り得ぬものは、沈黙によってその存在を感じとる。

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