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小説 『悪臭』 3

 翌る日、大学の授業にでていると、和樹が話しかけてきた。

「この間はお疲れ」
「うん、お疲れ」
「美羽って子のこと、どう思う?」
「どうって?」
「その…拓真のなんなのかなってこと」
「セフレらしいよ」
「ふうん、セフレね」

民法の授業は退屈だった。眼鏡をかけた初老の男性教授がもごもごとしゃべっている。その声を大教室で聞いていると眠くなってくる。ぼくはあくびを一つした。初老の教授はしゃべり続ける。

「つまり、信義則というのは…」

和樹が続けた。

「しおりのことはどう思う?」
「神取のこと?」
「そう」
「別にどうとも」

しおりの裸体を想像してマスターベーションをしたことは秘密だ。和樹とぼくの間に沈黙が流れた。

「たぶんしおりは、拓真のことが好きなんだと思う」

暫く黙った後、呟くように和樹が言った。

「そうなんだ」
「たぶんだけど」

和樹は民法の教授の方をじっと見ていた。ぼくはまだ、人が人を好きになるということがどういうことなのか、わかっていなかった。身体の大部分をしめる感情は、後に性欲と気付かれる類のものだった。ぼくは、愛も恋も知らない。和樹はしばらく黙ってから、ぽつりと呟いた。

「俺はしおりが好きだ」

ぼくは答えることができなかった。

 民法の授業が終わると和樹は別の授業に出席するため、大教室を後にした。ぼくはこの後二コマあいて、フランス語の授業だ。フランス語の授業には出席点がある。出席点が低いと、たとえテストの点数が良くても単位がもらえない。面倒だな。頭がふわふわしていた。大教室近くの喫煙所で煙草を2本吸った。煙を吐きながら空を仰いだ。真っ青で光り輝く空だ。雲も特別白くて、あともう少しで暑い夏がやってくる、そんな感慨を抱かせた。和樹はしおりのことが好きみたいだ。和樹はしおりのどこが好きなのだろう?やっぱり顔かな?それとも体?あるいは性格?もしかして、それら全部?疑問符があとからあとから頭に浮かんだ。しおりのほっそりとした裸体に直に触るとき、しおりの薄い唇に自分の唇を合わせるとき、しおりの中に自分の性器を入れるとき、そんなようなとき、しおりはどんな反応を示すのだろうか?しおりの唇から妖しい媚態の籠った声が漏れるのを想像して、ぼくは少し勃起した。女性のことを考えるとき、まず一番初めに性的なことが浮かぶ、そんな自分が恥ずかしかった。

 ぼくはまだ女の子と手を繋いだこともない。

 授業が終わり、アルバイトへと向かった。電車に乗って中野駅で降りる。サンモール商店街の中程から右へ折れて、少し歩いたところにあるチェーン店の居酒屋だ。その辺りは飲食店街になっていて、チェーン店の他に個人経営の小さな飲み屋、小料理屋、ラーメン屋、キャバクラ、焼肉屋などが軒を連ねていた。

「おはようございます」

事務室にいた店長に挨拶をして、更衣室兼控室兼休憩室に入った。ロッカーから制服を取り出して着る。ホールに出ようと更衣室のドアを開くと目の前に宮田雪が立っていた。

「おはようございます、島田さん、今日シフト入ってるんですね」
「おはよう、宮田さん、宮田さんもこれから?」
「そうです!一緒ですね」

そう言うと宮田は微笑んだ。宮田は栄養士の専門学校に通っている。歳はぼくの一つ下で20歳だ。背が低くて人懐っこい顔でぼくに話しかけてくる。ぼくがこの店でアルバイトをはじめてから半年ほどして、宮田も入ってきた。茶髪でショートカット、夏はTシャツに短パンのジーンズと小ぶりなノーブランドのバッグ、シンプルな格好で愛想が良くいつもニコニコしている。ぼくは彼女と話しているとドキドキする。体が疼いて緊張し、ドギマギした声を出してしまい、下半身が熱くなる。宮田の背中の透けたTシャツの下に見える黒いブラジャーの紐に、走りだしたくなるような性的興奮を覚えた。ぼくはそのときまだ若かった。あまりにも若くて幼い、剥き出しの若者だった。

 素っ裸の若者は傷つきやすく、一度受けた傷もそれを上手くかわす術を知らないものだから、長く深く自分の中に残る。その後の人生を左右してしまうくらいに。

 宮田の大きな目がぼくの目を捉えた。ぼくはどきりとし狼狽え、すぐに目線を外した。逃げるように宮田の横をすり抜けてホールへと向かった。すり抜けざま、宮田からいい匂いがした。それは若い女の香りと洗剤の香り、それと香水の香りの混ざったものだった。宮田はその日、白いロングのTシャツに、ダメージジーンズの短パンという格好だった。宮田の太腿にぼくは激しく欲情した。

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